神無月の変化

多分だけど、

従来のままでいようとする自分を殺したくて、

このままでは生きていたくなくて、

だから苦しみを感じていたような気がする。

 

新しいものに変化を起こす時、

それはとても大変なものであるから、

元の形に戻ろうと言うことがある。

近代化に進む過程ではこの手法を取ってきた。

 

わたしにもきっと同じことが起きている。

元の形に戻ることはない。

今までを引き継ぎつつ、

吟味して、編纂し、統合し、

新たな道を歩んでいる。

 

何かが起こりそうな気がする。

何かが大きく変わっていく気がする。

生を感じていたくない

生きている、

そんな実感を得るのが怖い。

時間が怖い。

 

時間が過ぎることじゃない。

時間を感じることが怖い。

 

何もしていない時間が耐えられない。

無が恐ろしい。

 

 

人間性を失い、

私を失い、

化物のように食物を詰め込む時、

その瞬間だけは、

無を感じなくていい、

生を忘れられていると勘違いできる。

 

脳内は真っ黒に塗り重ねられ、

痛みを超える感覚が身体中を襲うことで、

私がいなくなる。

 

 

こうやって、

自分を自分でおかしくすることで、

自分をいないことにしているんだ。

 

 

私でいるのが苦しい。

私がいるのがおかしい。

違う、自分が自分を感じることが、苦しい。

 

 

何もしていない時間が怖い。

何もしていないことが怖い。

 

 

私が生きていることを

一人で実感しなければならない時間が恐ろしい。

 

 

生きていたくない、

その感覚が、

毎日のように襲う。

この病気を長続きさせる。

 

★★★

 

 

私は、脳と心は別にあると思う。

脳はこの私で、

心はこの私の魂だと思う。

 

 

精神病は、

脳がマトモに機能しなくなり、

三次元で生きる人間としての尊厳を奪い、

そして、魂本来が探求する愛を忘れ、

精神性の失われた人間にやってくる、

とてつもない試練だ。

 

 

 

だから、ここから始まるのは、

この病気になってからの仕事は、

本当に大切なものはなんなのか

自分や他人や世界と向き合いながら

吟味していくこと。

 

 

私は何になりたくて、

どうありたくて、

何を知りたいのか。

 

それを教えてくれる居場所を求め続けている。

 

私は居場所を得たくて

自分に生きている許可がほしくて、

そのためには、何か権力をつけないといけないと思った。

 

自分の価値を、外部に頼る人生だった。

 

 

手っ取り早く価値を得るには、

まだ幼い女の私には知性と美貌が必要に思えた。

 

 

今まで怠ってきた外見のブラッシュアップ、

経験値も低く無知であるからこそ多く得られる智慧。

 

今磨けるもの、そして今の私でも

少しずつ得られる力はこの二つだと思った。

 

 

 

その二つを意識して

自分に取り込むことが、

夏休みの間までは、楽しかった。

 

自分のためであったから。

自分への愛につながっていたから。

 

 

今まで、

自分が好きな外と中を取り入れることを

自分自身で抑制してきた分、

本来求めたいものを求めることが、

自分の苦しみを少しずつ取り除き、

楽にしくれて、幸せを思い出させてくれた。

 

 

 

今年の夏、

様々な発見を通して

生に喜びを感じる私がいて、

私は、これからの人生は

もっともっと私を求めていいとわかった。

 

本来の私を取り戻したかった。

 

 

 

けれど、大学が始まり、

やりたいことと、

やらなければならないことが、

忙しさで混ざり合い、

だんだんと楽しさは不安に変わり始めた。

 

本来の自分を発見しはじめた反面に、

この自分で通用しない自分を見つけることが怖くなった。

 

 

 

もっともっと力を得ないと、

私は今の居場所さえも失くすんじゃないかと錯覚していた。

 

 

私は

みんなを喜ばせたることなんかできないのに、

いつもそれを考えなければならないと思ったのだ。

 

 

本当に大切な場所や、本当に大切なものを

失くしてでも、広範囲の浅い居場所を求める自分がいた。

 

 

勉強したいのは、自分を楽にしてあげたくて。
自分を楽にしたいのは、苦しみから逃れてもいいんだって教えてあげたくて。
そして、苦しみから逃れて幸福を求めていいと主張したくて。


幸せを感じたいのは、生きてていいと証明したくて。

 

 

 

居場所を得るためには、

そのままでいることは許されないと思った。

 

 

だけど、そのままであるということは、

向上しなくてもいいということじゃない。

そこを履き違えてはならない。

 

いつだって向上していいのだし、

追い求めていいものはたくさんある。

 

 

大切にしたい価値観や感性を

それがわからなくなる前に

守り大切にし続けるということ。

 

 

それが、

そのまま・ありのままでいいということ、

 

 

見失わずに、ドーンと行ってしまえと、

やっちまえということだ。

10/16

この世で生きることを決めた頃。

 

それ相応の苦しみがあれど、

そのことを承知の上でも、

どうしても見たかった景色や

地球上で会いたかった人や

私という人物になって感じたかった感情や

私だから考えられる思考、

そして私だからやれる行動に

喜びを感じたかったのだろう。

 

空の綺麗さや、

雲の流れる様子、

それをゆっくりと見られる贅沢に、

勉強できる喜び…

新たな友との出会いや

古くからの心温まる友人との会話に

心を躍らせ、生きる意味を見出し、

全力でその時を楽しみ、幸せを感じ、

そして、そんなひと時のかならずどこかで、

ひとり、感動のあまり涙を流す

ここ数ヶ月だった。

 

私は私を満喫できたと思う。

 

そしてこれ以上の苦しみをもう二度と

味わうことのないよう、祈ろう。

さあ頑張ろうぜ負けるなよ、そうさお前の輝きはいつだっておれの宝物

何で患者が悪いんだ、

何で患者の家族が原因なんだよ。

 

摂食障害の患者として、怒りがこみ上げてきた。

 

 

 

転院するたびに、

転カウンセリングするたびに、

毎度毎度毎度毎度、

 

・コンプレックス

・家族構成

・生きてきた道

・この病気にかかったきっかけ(全て)

・それからの生き方

・症状の出るとき

 

などを事細かに聞かれる。

 

対面ならまだしも、

初診予約の電話で聞かれたりもする。

もう慣れたと思いきや、

今でもストレスになると気づいた。

爆発しそうな何かが胸の中にある。

 

 

 

自分たちだって、向き合おうとしてても、

苦しくてたまらなくて、

ただ生きてるだけで精一杯になっているのに、

「どんな時に症状が出ますか」

「どんな時にどうなっちゃうんですか」

って、医療従事者は、

たくさん求めてきますけど。

 

 

それ、本当に必要なんだろうかと思った。

 

もっともっと、

もっとあなたのことを教えてください。

 

もっとあなたのことを知らないと、

治すにも治せません、と。

 

そんなの一種の脅迫じゃないですか。

 

★★★

 

確かに私は21年私と向き合い、

そして2年半以上病気の私と向き合った。

それでもまだわからないことは多く、

医療の知識だってほとんどないに等しいだろう。

 

医者のわからない知識や

自分にしかわからないことだって

もちろんある。

この2年半、学位もないけど

自分なりに考察もしてきたし、

真面目に治療に取り組んだと誇れるが、

 

「過食症は病気じゃないよ、摂食障害ってのは食べられなくなる病気なんだよ」

 

とかいうバカなクソ内科医にさえ

私は敵わないことだって知ってる。

6年の医学部生活もその後の実習や長年の医者としての勤務経験なんてないから当たり前だ。

 

 

こういう病気は

心の問題とかいうけど、

そりゃそうだけど、

そういうところもあるけど、

脳がおかしくなってんだ。

当事者の私が勉強して経験して

様々なことを考えた結果、

そういうことだってもっと認めろという話。

 

心っていうと、

その人を取り巻く環境とか、

その人の考えとか、

その人がどうしても悪いみたいになるじゃんか。

心の病気っていつまでも、

患者が抜け出せない仕組みになってるの、

おかしいじゃないか。

 

ガンとかと一緒で、

気付いたらなってしまっているもんで、

そう捉えてもらっておかしくないはずだろ。

 

何でみんなそんなこともわかんねぇんだよ。

 

認めろよ。

 

 

 

悪者探しとか、

悪いもの探しとか、

そういうことばっかして、

治った患者いるのか。

 

問診して知った気になって
カウンセリングして
認知の歪みを正して
薬物で科学的に操作して
それが人を治す医療なのか。

医者は回るだろう、
いつまでも患者は来るだろう。

いつか社会は崩れるだろうよ。


私の周りは絶対そうしちゃダメだ。

 

 

今調子の悪い、その人本来を引き出すには?

そういうこと考えながら

目の前の人と向き合ったり

カウンセリングしたり

薬出そうとしたり

してる人いるのか?

今の医療の治療って何なんだ。

 

 

 

 

医療だけじゃない、

親も、教育も、友人関係だってそうだろう。

それができない人間関係なんて捨てちまえ、切ってしまえ。早々にだ。

 

私はもう大切にできるキャパシティしか大切にしない。

自分のためにも自分の限度を守る。

 

 

 

 

 

心も脳も体の中身全部も外見も

本来の力を引き出さないと。

能力も才能も、勝手に他人が、

環境が潰したら、摘んでしまったら、

病気か自死が待ってる。

ダメだよ。

 

 

人は生まれたからには、

一人で生きていけないけれど、

だからこそ、

人類の一部として、

共同体として、

何かに参加し

何かの一部で

何かになれる自分である喜びを知る

使命がある。

 

 

やっぱり人は小さな頃から

そして大人になっても、

本来の姿で生きなきゃならない。

幸せってのはずっと守られていいものだと思う。

自然で、本来の姿であれる形こそが幸せであるならば。


その状態こそが自由であり、

人間が追い求めてきた、

そしてこれからも目指すべき真の近代化であって、

利便性の高い社会だとか、

ただ身分が解放されただけでは自由ではない、

そこから私たちはモノ化されていない、

職業でも名前でも何でもない、

まず人間としての自分という意識の確立から始めなければ。

 

 

 

私を含めて、死ぬな。

お願いだから、お願いだから、

私、死なないでくれ。

泣きながら自分に懇願する。

おかしいだろう。気味の悪いことだろう。

でも、生きたいんだ。

同時に自分を殺したいと強く思う自分に勝ちたいんだ。

死を身近に、身体に疑問を、学生に喜びを。

死を身近に感じることは、

今に始まったことではない。

 

本当に小さな頃から、

常に考えていたから、

これは私のもう一つの癖や個性であって、

鬱とか精神病だとか、

そういうものではないと

最近は思うようになった。

 

この先の人生を続かせることを考えられない。

でもこういうのって、よくあることでしょう。

 

「私の人生どうなるんだろう」

「俺の将来どうなるんだろう」

「夢がない」

「何になるのかわからない」

とかっていうのと同じように、

私は死を考えているってことなんだと思う。

 

 

★★★

 

 

今年の七月まで、病気の悪化が続いて、

それからはじめてやっと快方に向かい、

夏休み中は治療に専念できたけれど、

秋学期が近づくにつれて

やっぱり不安が大きくなって、

また少しずつ症状が戻ってきて、

ここ最近は、あまりうまくいかない日が多くなって来て、

実は毎日死を考える。

 

夏休みはほぼなかったけれど、

そんな期間は本当に人生で初めてだったと思う。

初めて死から解放された二ヶ月弱だったから

夢みたいに幸せだった。

 

それが終わった今、

やっぱりまた私は私で、

安心したような、

やっぱりかと失望したような、

複雑な気持ちで自分を見つめる。

 

意識のある76%くらいの時間は死を考えている。

でも、24%くらいの時間は、外部の力を借りて、なんとか生を考えられる。

 

圧倒的に死の時間が長いのだけれど、

それでもこうして生を選択できるのは、

死に費やす思考エネルギーは、もう癖になっているから、

そこのエネルギーは1で済むのだけれど、

生はエネルギー量が半端じゃない。

一度あれを得たら、刺激と快感がすごくて、

いくらでも頑張ろう、生きようと思えるから、

全総量のうちの24%程度の時間でも、持続する。

だから私は生きていられる。

 

きっと、私が生きていられるわけって、

生を考える時間の総量の結果じゃなくて、

生のエネルギーをもらった瞬間の積み重ねなんだろう。

 

でも、その分、すごく疲れるから、

死を余計に考えるのだけれど。

死のエネルギーは1なのに、

生のパワーって一度で10000くらいだから、

生のパワーを受け取ると

あまりに楽しすぎて、

生きようと思えるけど、あとで大変に疲れてしまう。

結果、死を選びそうになるから、

どうしたらいいものか。

 

こうして生きる人間もいるんだ、ただの個性だよ、本当、この世は。

排除しないでね。

 

★★★

 

でも、この夏休みに、

こうして、

たくさんの元気エネルギーを経験して、

死をほとんど考えられないくらい

楽しくて、

幸せで、

だから、もう

実は結構疲弊しているし、

そして、なぜだか今、とても怖い。

 

それと。
この世で生きることのストレスに

いちいち耐えきれない。

前よりストレス耐性弱くなってきた。


朝起きる時も叫びながら夜明け前に起きてしまったり、

通学の電車で耐えきれず泣いてしまったり、

普通になりたいのに、力が抜けていく日も多い。

勉強したいのに、学生がやっぱり辛い日がある。



ふと、もうやりきれなくて死が離れなくなって、身近に感じる。


いつか死んでしまいそうで怖くなる。

鏡を見ると、日に日に自分の認識が薄くなる。


でも、前より、心は元気でハッピーな今だから

余計に何をするかわからないのだ。

 


最近は自分を解剖して死ぬ想像が

脳内で何度も繰り返される。

自分に猟奇殺人をしようとしたり、

自分を殺そうとすることを楽しみにする自分がいる。

 

 

7月までは「こんなダメな自分生きている価値がない」だったけれど、

夏休みを超えて、ある程度自己嫌悪も超えて、

自分が嫌いでもなくなって、

いつ死んでもいいって思えるようになるくらい

人生を生きたと思えるようになった今は、

「いつでも私が自分を楽しく殺して美しく人生を終えたい」

と思う。

それが悪いとも全く思わない。


私、死にたいのかな。生きたいのかも死にたいのかもわからない。

勉強はしたいし、授業は受けたいけれど、

授業受けるたびに、幸せなことがあるたびに、

「ああ、本当に幸せだった、もう後悔ないな」と思う。

それだけで、行動は起こさないけれど。

なにかしら。

 

行動を起こすのが明日でも、1年後でも、十年後でも、50年後でも、

きっと、私は一生、死を身近に感じて生きるんだろう。

 

でもそれが悪いことだとはもう思いたくなくて、

それは本当に個性で、

そういうことを主張する人間がいても、

いいと思うし、

何も頭のおかしいことでもなんでもないと思っているので、

書き記したかった。

 

★★★

 

 

話は変わるけれど、

今日の朝、

というかここ二週間ほど特に感じていたことだけれど、

抑圧された状況下では、

人は明らかに生命力を落とす、

または快適なあるがままの心身の姿を失うってことを

改めて、身を以て実感していた。


これはずっと自分の中では思っていたことですけども。

 

まぁ精神病というものが世の中にあるし、

病は気からというし、

精神、心についてはわかってる人は多いと思うけれど、

私は体、容姿もそうだと思っている。

体や容姿は変わりづらいと思ってる人が多いから

中々理解者はすくないけど、

私は自分で今実験中、体験中。

今日やっぱり改めて思ったな。

 

というのも、私自身、生まれてからずっと、

自分のこの体に違和感を感じ続けている。まだ手探りな状態。


でも、少しずつ少しずつ、本来の姿に近づいてきてる気がする。

まだ旅の途中だよ。21年経ってもたどり着けない。

例えば私今でも身長伸びているし。本当に。私の体、まだ完成してない。

面白いことに、心身って、限界なく変わっていく。

自由に気づくと特に成長は早い。だから子供って特に成長するのだと思う。

あまり学術的に認められるものじゃなさそうだけど、持論すぎるけどね。

 

 

★★★

 

勉強がしたくて大学に入ったわけだし、

学生であることに本当に喜びを感じるのだけれど、 

なぜこんなにも感じるのだろうと少し自分自身不思議に思うこともあったが、

勉強できるということは、すごく幸せだと思うことの理由の一つに、

自分の存在が認められるからだと気付いて、涙が出た。

 

恥ずかしい話かもしれないけど、

存在を認めてもらえるというのは

こんなにも嬉しいことなんだとわかった。

 

誰にというか、自分が

「そっか、私、認められたかったんだ」

と私自身にわかってもらえただけで

胸がいっぱいだった。

 

在日であるというマイノリティ意識や
女性であることなど、
今まで劣等意識をもっていた、
自分のすべてのアイデンティティがどんなにあろうと、
また、どんなにおかしな病気や癖や障害を抱えていて、
自分が普通でなくても、
コンプレックスが多大にあったとしても。

それを学問に昇華してしまえることが本当にありがたい。


ただの悩みを、頭を痛めるだけで終わらせることなく、

問題意識を持って、解決をするために高等教育の場に身を起き、
授業をきいてたくさんのことを学んだり、

自分の人生で感じてきたことや見てきた物事と

つなぎ合わせてみたり、

新しい発見ができたり、

とにかくすごく楽しくて、

その瞬間に喜びを感じていることで、私は人間として、存在出来ていることを確認する。

 

普通でない自分が、

ようやく存在をちゃんと認められて、

いることを許され、

しかも自分自身も自分であることを許せた気がするから、

だからこんなに嬉しいんだと思う。

 

学問の場に身を置けるというのは、

そういう幸せを知れるということなんだとわかった。

 

 

ビバ、近代化。

 

ビバ、自由化。

 

 

 

ありがとう、人生。

 

私、ちゃんと、人生でいろんなことを謳歌した。

 

 

ひとまず、秋学期、二週目まで終えた。

大変な闘いだった。それでも辛かったけれど、楽しかったよ。

小田急線で泣いた日も。

秋学期が始まる1日前、

本来予定が入っていたはずの日が、

急に何もできない気になり、

1日休まないと、

学校に行けなくなる予感がしたので、

日曜日は玄関から一歩も離れず、

ほとんど横たわって寝込んでいました。

 

 

その判断と行動を

間違っていなかったなと思うほど、

秋学期はじまりの1日目から、

楽しみであり、一方で恐怖と不安ののしかかる苦痛と疲労で

体が朝からうまく動きませんでした。

 

朝のきついラッシュ帯を避けたので、

かろうじて通学はできましたし、

週初めのしょっぱなから

もっとも楽しみで、かつ好きな先生の授業があるので

それを心のよりどころにして

なんとか学校にはつくことができましたが、

それでもやっとで、

これが十数回続くのかと思うと今から不安です。

 

しかし、

今日の授業や、新しい交わりなどを経て、

やっぱり、不安や恐怖といったものを超えて、

刺激的で、どうしても楽しかった。

 

学生であることは、本当に幸せで、

魅力的なことだと、改めて、思いました。

 

こんなに大学生をやることが、

授業を受けることが辛くたって、

こんなにも楽しいことがあるのなら、

それでも私は学生をやりたいと思ったし、

学生でありたいと思ってしまいます。

 

 

しかしそこに摂食障害の症状がつきまとうなら、苦しい。

 

いやだ。やりたくない。

 

それほど、この病気も、もううんざりだ。

 

だけどやっぱり、勉強は楽しい。

学生は楽しいと思った。

 

授業をうけると、

勉強したい、

頭がよくなりたい、

知識を身に付けたい、

この人のようになりたい、

もっと世界を知ってみたい、

もっと考えたいと思わされるのですが、

いまはその願望に追いつけません。

 

なぜなら、そこまでの体力や脳力があまりにないのです。

脳がそこまでのスピードに追いつける自信もなく

そこに挑戦しようとすることに、馬鹿な自分がストップをかけたくなり、

そのジレンマがすごく辛くて、

それを感じた瞬間、自分に居場所がなくなった気がして、

自分でない何かが脳内を侵食してくるのです。

 

★★★

 

いくら、

焦らなくていい、自分のペースで進めばいいと言ったって、

それには時間やお金が人の何倍もかかるから、

それは非現実的すぎて、とてもじゃないけどつらい。

そう思うとやっぱり自分は社会不適合なのではと思い、

自分ではない何者かが脳内を侵食し、

怖くなり、

電車内で涙が止まらなくなった。

学生をやる自信が一気に崩れてしまった。

 

 

こんなにも楽しいことを、

処理できない自分の一部分や、

ぶち壊してしまう自分でない病気があることが、

やっぱりくやしい。

 

 

学生は魅力的だけれど、

大学始まって1日目から、というか始まる日が近づくにつれて

過食嘔吐が増えていっていたことに気づかないようなふりをしていた。

 

別に罪悪感そんなにないけれど、

脳内を侵される感覚は嫌だ。

 

今日、帰りの電車で涙が出て、

やっぱり何か自分の中で整理をしなければならないと感じた。

 

 

大学生をやっている周りの友人や、

人生の先輩方を本当に尊敬する。

 

私はなぜこうもできないんだろうか。

 

頑張りたいんだけどなあ。楽しいんだけどなあ。授業。

 

 

 

夏休み、本当に楽しかった。

生きることがこんなにも楽しくて、素晴らしくて、

幸せを感じてもいいものなんだと、

日々心から思えたのは初めてだった。

 

私はこの夏休みを過ごせただけで、

大学生になってよかったと思うし、

この大学に入ってよかったと思うし、

本当に、生きていてよかったと思った。

 

この二ヶ月、自分の研究をして、

自分と向き合って、

ちゃんとたくさん自分を感じて、

誰が認めなくても

自分が自分を愛せたことが本当に嬉しかった。

 

この夏が、私の思い出といってもよかった。

 

だからもう、

初夏は「死にたい」でも、

夏の終わりは「いつ死んでもいいな」になっていた。

 

 

なのに、大学始まった1日目にまた

生死の狭間に戻りそうになっていて、

「でも、あんなに素敵な夏休みを過ごせたから、もう、いいのかな、

あれだけ素敵な夏だったから、もう、いいか」

って思ってしまったのだけれど。

 

家に帰って、家から、東京の夜景が見えて、

この大好きな、人の活気が満ちた、

人によって作られた、人による、人の自然物をみて、

死ぬなんてそんな決断、寂しすぎると思った。

 

 

★★★

 

 

死なないくせにいつまでもそういうこと言うんだって

思われそうだけど、

いつが一番美しい死に際なのか、

小学生の頃からずっと考えている私にとって、

きっと、私の一番の夢って、

綺麗にこの世を去ることなのかもしれません。

 

有名になるとかお金持になるとか、

思い通りの職を持とうとか、

最近はそういうのがどうでもいいんだろうな私。

 

好きに好きな人たちとあってたくさんお話できて、

自分を好きでいれて、

落ち着く家があって、

少しでも健康でいられて、

それで、死に際まで美しくいられることが

私の夢なのかなあってそう思います。

 

だから、

それを叶えられるようにいたいな。

がんばれるかな。

 

お花、ありがとう。

もう本当に今日も絶対忘れたくないから

ここに記録しておく。

 

摂食障害の勉強をしたいと思ったのは、

誰かのために役立ちたいというのもあるが

まずは何より自分のためだし

自分を治したかったからであり

だからそもそもその勉強から

少しでも有益な何かを得られるなら

楽しいわけだし、

新しい知識を習得する度に

ワクワクし、高揚する。

 

 

その快楽の代償なのか、

この勉強をする楽しさの裏に、

やっぱり時折壮絶な痛みが襲う時間も来る。

 

 

 

楽しいはずなんだけど、

楽しもうとしてるのは、

摂食障害の世界であって、

普通の世界じゃないのかと気づく。

 

 

こんなこと思っても仕方ないのにねぇ。

 

 

 

 

中学生の頃から7年間、

ずっとそれしか見てこなかった夢がある。

 

 

最近はその夢にあまり興味が持てなくなった。

 

 

ないといえば嘘になるが、

前ほどの情熱がない。

 

 

 

それよりも、医療や、

それこそ自分の病気にまつわる研究や、

それらに関係する仕事に、

現在は興味・関心がある。

 

そういう方向で

日々暮らしていくことを考え始めたが、

新しい夢ができたことに喜びを感じたのは

ほんの一瞬だった。

 

 

病気になって、

私はいつまでもこの病気と

何もかも病気をきっかけに

何かを楽しむ人生になるって、

結局私はこの摂食まわりの世界で生きる人間なのかって

そう思えて、

なんだか久しぶりに怖くなってきて、

もう直ぐ始まる大学とか、

これから頑張ろうとしたいろんなことが

全部頭の中でグチャグチャになって、

いっぺん、

黒一色で上書きして何も考えないように

胃を苦しみさえ感じることが出来ないほど

たべもので満たした。

 

そしてそこからそんな自分を無にしたくて、

その無の瞬間を感じとりたくて、

胃から口まで、満たしたものを流れるようにおびきよせた。

 

この感覚は、

きっと他人が見たり聞いたら

気持ち悪いと言うんだろう、

理解し難いだろう、

でも、自分にとって、

なんだかんだこの世界で生きることを

引き返せないままきてしまった自分にとって、

絶対忘れてはいけないことだと思う。

 

だから書き記しておきたかった。

 

 

こういうのを、

忘れずに

ちゃんと繋げてほしい。

 

こういう辛い一瞬とか

その感覚をちゃんとこうして言語化して

覚えておいて。

忘れないようにして。

医者になるでも、

研究者になるでも、

時間かけても

なんでもいいけど、

何か患者や患者周りの人と出会った時に

どうか役に立てる人間でありますように。