2017年の夏至

さいきん、ブログを書く時はだいたい

負の感情を動力源にして

たくさん書いてしまったので、

どうしても胃もたれしがちな内容になっていたけれど、

今日はもうちょっとふんわりした、

たいしたことないことを。書く。

 

 

 

 

本日は夏至でしたね。

 

私は冬至がくると少し寂しくなって、

夏至がくると少し気持ちが落ち着きます。

 

冬の方が好きだから。

この日がきてしまえばあとは冬を待ち望むだけ。

 

夏至を過ぎれば、

この先、7月8月と本格的な夏が来るとしても、

ちょっとずつ日は短くなっていっていき、

暑さが本気を出す中にも

潜在的に冬を準備している世界観を感じとれます。

 

「このムシっとした暑い夏もだんだん終わっていくのだなあ」

と、夏を乗り切る決意ができる日が夏至。

 

反対に、冬至は

潜在的な夏の準備を始められるので、

ちょっといやだけど、

でも冬至の先には、

クリスマスとか年末年始とか自分の誕生日とかバレンタインデーとか、

楽しみな冬ならではの行事もたくさんやってくるから、

まぁまぁ穏やかな気持ちでいられます。

 

 

まぁ今年の夏至は、

東京では夏至っぽさ、感じられなかったな。

 

大雨でしたね。

 

 

数年に一度の規模の大雨だって、

昨日のお天気ニュースで見て、

そんな数年に一度のスペシャル気候にめぐりあえるなんて、

生きてきたからだなあ、生きてるってすごいなあと、

ちょっとした感動を覚えつつ、

いざその日を迎えれば、

少しだけ気分が落ち込んだりもしました。

 

どんよりとした雲。

 

 

だけど、好都合だったのは、

雨の音がいろんなものをかき消してくれたこと。

 

窓をあけていても、

好きな歌を、

音程も音量も気にすることなく

歌えました。

 

そのあとちゃんと外に出て、

やっぱり外でも歌えました。

人通りの少ないところでね。

工事してたし、大雨の音がするから、いいかなあって。

 

 

雨量だけじゃなくて、

風も強かったね。

 

びっくりしました。

 

何度か傘がひっくり返っちゃって、

困ったなあと思いつつ、

あまりに風が強いもんだから、

「なにこれ!映画かよ!」って

一人で大笑いしちゃいました。

 

ちょっと気持ち悪いかなあ。

 

でもなんか、非現実的すぎて、

そんな風に思ったら、楽しくなって、

髪の毛が湿気でいつも以上に魅力を失ってしまったこと以外は、

とっても楽しい雨の夏の日でした。

 

 

東京の街を歩いたから、

私はこんなに楽しめたんだろうな。

 

生きている人が、

街を形成していくんだと、

さいきんは東京を歩くたびに感じます。

 

東京が好きです。

東京で生きる人も好きです。

 

だから、東京を歩いて、

すれ違う人からいっぱいエネルギーをもらえた気がします。

おかげさまで、

家に帰っても今日は元気でいられました。

 

なんか、一人なのに、

すごく笑っているのが、

不思議でねえ。

 

ちゃんと好きなことをするのって大事だなあ。

 

東京を歩く時間が私にとっては本当に大好きな時間です。

 

 

雨が止んだから、洗濯しなきゃね。

 

生活してるなあ。

わかってほしいと思っていたけど、わかっていると言うほうがキモい

(はじめにことわっておきますが、
私がこれから書くことは、
あくまで一個人の、本当にこの私という人間が
感じたことにすぎません。
当事者のみんながこう思っているとは思いません。)

 

 

病気が治ってから、
大分自分の中の考えが少しずつほぐれていっているような気がします。

病気に関しても、
もう過去のものと捉えれば、
話すのが楽になるなぁ。
どうして楽になるかはこの先書きます。

 

そんなわけで、2年数ヶ月の摂食障害と向き合って、
そして治った今思ったことをちょっと書きます。

 

 

私はこの病気にかかってから、治る直前まで、

ずーーーーーーーーーーーーーーーっと

病気を人にわかってもらいたいと思っていました。

病気だけじゃなくて、病気の自分をわかってもらいたいと。
わかってもらいたい病でしたよ。

 

ずっと、わかってくれそうな人を探していました。

 

「この人はこんな私をわかってくれるだろうか」と
常に期待して人間関係をみていたし、
「ダメだ、わかってもらえそうにない…」と感じると
勝手にめちゃくちゃショックを受けていたのです。

 

安全地帯を求める欲求がむちゃくちゃ強かったんです。

 

だけど、治った今思うのは、

「摂食障害なんて、ならない限りわからない」

という当たり前のことです。

 

ここにたどり着くまで2年3ヶ月要しました。

いや、病気というか、私をわかってもらおうなんて、
なんとおこがましいことか、
ていうか変にわかられたほうが嫌じゃん、
と思えるようになるまで21年と3ヶ月を要したのでしょう。

 

精神疾患全般そうですけれど、
心の病気というものは偏見の多い病気なので、
なってみないとその辛さとか症状なんてわかりっこないですよ。

偏見死ぬほどいっぱいあります。

いちいち気にしてたらやってられないほど。

 

自分の周りには、
人を受容することに優れた、
大変心優しい人が多いので、
なんとなく期待ばかりしていたわけですけれど、
世の中そういう人ばかりではないんですよね。

あまりに心無い言葉をかける人もいます。
わかっているようで、そこを全然わかっていなかった。

 

 

 

つい最近、
ある友達がこの病気について聞いてきたので、


「私にとっての過食は食べたいからやるんじゃなくて、自傷行為と同じ」

と答えたら腑に落ちていたようでした。

(自傷行為している子じゃないのに自傷行為って言って腑に落ちるってそれもなかなかすごいと思うんだけど。
※この感覚は個人差があるし当事者によって理由とか違うと思うので100%これだと思わないでくださいね)

 

 

でも普通、わからないですよ。

だって、経験者の私だって、摂食障害についてわからないことだらけです。

他の精神疾患もそうですけれど、
摂食障害、マジで十人十色なので、
全員「こういう症状があります」「こういう理由で症状が出ます」
みたいなの確実な共通項はないんです。

拒食を伴うのか、嘔吐を伴うのか、もう種類がいろいろあって、
多分患者同士でもわかりきれません。

 

そんな病気の理解を

当事者外・経験者外に求める限り、ずっと辛かった。

 

 

今はっきりと思うのは、そんな、理解とか無理ですよね!!!

わからないでしょ、そりゃ。

 

というか、少し齧って知識あるくらいの人のほうが、
完全にナメくさって接してきます、
こっちのほうがタチ悪い。

 

わからないことはわからないといって聞いてきてくれる
周りの人が一番優しかったし、救われたし、
傷もつけられなかった。

 

「精神疾患・摂食障害を勉強してます!」っていう人ではなく、

「栄養学や医学を勉強する上で摂食障害っていうのも触れましたよ、そういう患者もみてきました〜!だからわかるんだよ!!」っていう人の浅さ。

 

これ一番残酷で最悪だって気づいてから、
「わかってほしいと思ってたけど、わかってる風が一番困るからわからなくていいよもう」
と思いました。
まぁ治ったから言えることです。
治るまではわかってほしかったよやっぱり。

 

 

ぜったい、病気はなってみないとわからないから。

 

少しの想像力を働かせて、

知ろうとする姿勢があればそれで本当十分ですよ。

そんなことをしてくれる人がいるだけで私は幸せでした。

 

「わかってわかって」って思っててごめんなさい。

 

もし近くに精神疾患で悩む人がいたら、
接し方難しいとは思いますが、

病気を見るんじゃなくて、その人本人をみてあげてください。
病気をわかろうとするなんて無理だし、
どんなに相手がそれを欲していても、
半端にわかってるという方が面倒なことになりかねないので。

それと、病気の人は
「私はこんな病気だから」と
病気持っていることがアイデンティティーだと思って
伝える場合が多いです。

それは単に同情してほしいからだけではなくて、
「面倒なことをしてしまうかもしれない」
「人一倍迷惑をかけるかもしれません」
という、予防線なんです。

「あなたと関わりたい」
「あなたと一緒に仕事をしたい」

などの思いは人一倍あっても、
病気がその意思を台無しにするようなことをしかねないので、
まあそれが病気・障害というものなので、
本人も苦しんだ上でそれを言ってるんです。

でも、本人がそうやって自分を言っている限り、
周りが病気を見るっていうのは、
病気のその人を対処しようとするというのは仕方ないんですが、
病気ではなくて、その人を見るようにしてあげてください。

 

そして、
精神疾患に苦しんでいる人は、
病気をわかってもらいたい気持ちや、
自分を受け止めてもらいたい気持ちが
何よりも先行することがあるかもしれませんが、

病気の自分を取っ払った、本来の自分を見てくれる人を大切にしてください。

私はそういう人がいたのに
冷静になれず
「わかってくれない」
と思って突き放してしまいました。

治った今思うんですが、
病気を抜きに話をしてくれる人こそ、
本気で私と向き合ってくれる、
そんな努力をしてくれる人でした。

すごく後悔しています。

 

 

 

精神疾患のカミングアウトをしてから、
病気は
同情を誘い込み、
そんな私でも理解してくれそうな人を選定するための、
自分の中の盾でした。

こんな私でした。

本当に恥ずかしいし、ダサいけど、マジでこういう節がありました。

だから、今までは病気を伝えることに
自分の中でも申し訳なさとかあったんですけど、
治ったし、今そういう自分がいたと自覚がある分、
病気を語るのは別に単なる事実でしかないので、
楽です。下心がないので。楽。

 

だから病気の人に言うけど、
病気を抜きにして話をしてくれる人、自分を見てくれる人、
強い自分を見抜いてくれる人を頼って欲しい。

そういう人は、多分「弱いあなたを認めない」わけではないから。
病気のあなたを否定しているわけではない。
そんな病気なんて、あなたを構成する何者でもないとわかっているから、
そういう対応なんだと思うんです。

ああ、これ、病気の人に言うって言ってるけど、
過去の自分に伝えたいことです。
本当、大事な人を失わないでくれ。

 

 

あと、病気の人を身近に見ている人にいうけど、
期待させちゃダメだし、
わかろうとしてくれるだけでありがたいので、
わからなくていいです。
寄り添うだけで十分人助けになってます。

 

 

そして、
医者とか医学生とか、栄養士とかに言いたいんですが、
患者から学ぶ気持ちでいて欲しいです。

教科書に書いてあるようなことじゃなくて、
その人本人とぶつかってくれ、
そうじゃないのに「わかってる」みたいな態度が一番傷つくしムカつきます。
わかりたいなら病気になってみてくれ。
理解しようなんて無理ですよ、わからないこと前提で接してください。
そういう素直な人が何倍もいいです。知識量とかマジどうでもいい。

お金と感謝について思うこと

労働の対価として私達はお金を得る。

当たり前の原理だけれど、このお金について思うことを、
自分のためにまとめておきたい。

 

 

 

こういう言い方をしたらなんだか胡散臭いと感じる自分もいるのだけれど、
それでもやっぱり私が思うのは、
お金は、感謝されたところに行くということ。

 

自分ができないことを、
自分がやったら莫大な労力と時間を要するものを、
誰かがやってくれている。

手間を省けたありがたみ、
困っていることに手助けしてもらうありがたみに、
実質お金を払うことになっていると思う。

 

 

特別な才能を持っている人や
高度な技術を持つ人によりお金が払われるのは、
その才能や技術を得ることは並みのことではなく、
それを持つ人のおかげで
多くの人がそれを得る手間を省いてその人たちに頼れば良くなるから当たり前。


自分だったら習得し300、3000時間かかるようなことを
その人に任せれば3時間で終わらせてくれるというような場合、
それは確実にお金を払うべき、かつ払うことにためらいはない。

 

 

自分がやらなくても、
食材を育ててくれる人がいて、
流通させる人がいて、
調理する人がいて、
販売してる人がいて、
公共施設を掃除してくれる人がいて、
交通機関を走らせてくれる人がいて…

身近なことでいえばこういうことに、
私達は日々お金を払っている。

 

自分がすべてをやらなくてもよいのは大変助かる。ありがたい。

 

食に関して言えば、
毎日自分で食材をすべて用意して調理して片付けなくても、
お店に入って注文さえすればこの上の手間はすべて省けてしまう。

これを書くのはお金を払えば面倒が済むからいいよね、という話ではない。


自分ができる仕事にきちんと時間を割いて、
効率的に時間を扱うためには、
物事の取捨選択をせざるを得ないし、
自分がしなくてもいいことをお金を払って省いていくのは不可欠だ。

貨幣の存在する世界では、
お金を払って「ありがとう」を示す。

 

「ありがとう」をたくさん得られる、
つまり需要のあるビジネスは盛り上がるし、
そうでなければ淘汰されていく。


「フォトジェニックで美味しくて、
心もお腹も満たされる料理を出してくれてありがとう♡」
がたくさん得られるような飲食店はそりゃ流行するように、
今の時代の人が何を求めているかをきちんと見極めて
それをカタチにできたらお金は自然と集まるでしょう。

もちろんそこを見極めるためにマーケティングが存在するし、
そんなに簡単にできることではないかもしれないが、
でも確実に、隆興している事業は、
たくさんの感謝を人々から得ている結果として存在する。

 

 

当たり前のことを長々と書いているだけだね。

 

 

まぁなんでこんな当たり前を書いているかなんだけど、
お金持ちになりたかったら、
お金を得たいなら、
「ありがとう」をちゃんと満たさないといけないと思ったからだ。

これは、他人に感謝されるような存在であれとか、
そうでなければならないというつもりではない。

そこではなくて、自分で自分に感謝できなければいけないと思った。
あとは、身近な人。


これは私の短い人生で出会った人を思い浮かべた結果感じたことなので、
まぁ世の中のそれとは違うかもしれないが、
それなりに多めの収入を得て、地に足ついてしっかり生き抜いている人って、
例えば奥さんという存在を本当に大事にしていて、
奥さんが満たされているように思う。
子供をきちんと大事にして、家族からの「ありがとう」を得ている人は、
やっぱり強いんだよな。

そして自分をすごく大事にしているし、
そうやって自分が大事にされる存在なことを、
潜在的に意識しているし理解しているだろうから、
身近な大切な人のためにも
自分をないがしろにはしていなくて。
自分でも意識できてないレベルかもしれないが、
きちんと自分で自分に感謝を渡せている。
はたから見ればそう思う。

 

そこをおろそかにして、
目先に見える仕事だけを必死にしていても、
頑張っているのに空回りしてしまうし、
あとはやっぱり、
「ありがとう」の数に匹敵しない悪事をしてしまえば、
ちゃんと崩落してしまうんだよな…。

 

しっかりと稼いで、
でもお金だけじゃない大切なものを守り抜いて、
自分を芯から幸せにするには、
いかに自分とみじかな人を大事にして、
潜在的な感謝を得ることが始まりだと思う。

よくわからないけど、多分こうだと思う。

私はこれを目指さないといけない。

 

 

私は自責癖がすごいし、
まだまだ見捨てられ不安がどこまでも強いのだけど、
ちゃんと自分に「ありがとう」といっていかなければ、
いつまでもお金を使うことに罪悪感を持ち続け、
お金を得ることにも自信を持てず、
精神的にも物質的にも貧乏であり続けると思った。

精神的貧乏は悪循環でしかなくて、
より精神を弱らせるから、本当によくない。

 

親からしても困った子だろうし、
友人含め、恋人にもすごく迷惑をかけていたと思うし、
自分は身近な人に感謝されるような人ではないから、
このあたりを意識しながら、
でも自分を責めないでなんとかやっていこう。

 

だからまずは自分をめちゃくちゃ大事にして、
自分のすべての意向を汲み取り、
どんな自分も扱えるようにしてからであり、
ちょっとまずそのあたりをちゃんと意識していこうと思うのだ。

 

お金あるところに感謝ありなのか、
感謝あることろにお金ありなのか、
(うーん、でも、
そうとはいいきれない前者の事例と、
後者だとじゃあ感謝されれば十分にお金がもらえるかといえばそうでないこともあるのだけど…。)
まぁ、お金を得たかったら
感謝を考えるべきは普通だと感じる。

そしてこの文を書いているのは
誰かへの助言のつもりでも
感謝の強要を促すわけでもなく
(私は感謝の強要が本当にアレルギーのように無理だから人に絶対したくない)
お金を得る方法とか、
お金のことを考えるなら、
もっと自分に感謝しないとダメだなと、
はじまりはそこからだなと感じたから。

 

もっと自分を好きになるとか、
もっと自分に自信を持つって、
ある人にとっては難しい感覚だと思うけど、
好きじゃなくても感謝できることってあるじゃない。

だったら無理に好きになろうとか、
自信のために成功体験増やす時間をかけようとかしなくとも、
感謝することだったら気軽にいつでもできると思った。

根拠なき自信を持つよりも簡単なことだと思う。
根拠なき自信を持ってもすぐに自己否定型の自己が強くなる人にとっては特に。

 

「喉乾いたときにお水飲んでくれてありがとう〜」
「疲れた体をお風呂であっためてくれてありがとう〜」

なんかは、自分が嫌いでもできるし、
腐りきってて自信と無縁な状態でも言える。


そんなことを繰り返して、
自分はちゃんと自分から感謝される存在になれれば、
それに気づければ、
だんだん社会との良い繋がりも自然とできたりして、
そこでお金を稼ぐ方法とも繋がって、
安定してくるのではないか。

 

 

 

まぁちょっと、自分で実験して
結果をみてみようと思います。
最後だけ敬体。

 

お金、大事だからな〜。
でもお金はあくまで感謝を可視化したものだからな〜。
と考えた結果深めてこういう持論にたどり着いた。

世界の中心で愛を叫んだけもの

「あなたはパーソナリティ障害だと思わないほうがいいんじゃないかしら」

 

 

今日、カウンセラーさんに言われた言葉。 

私も、うすうす感じていたことだった。

 

病気って思わないほうが、もういいのかな。

そんなことについて考えた結論を今日は書こうと思う。

 

 

 

 

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「医学的にはわからないけれど、心理学的には、
あなたはパーソナリティ障害と言う必要はないと思うの。

パーソナリティ障害の症状に
あてはまることもあると感じているかもしれないけれど、
でもあなたはちゃんと強いところがあるから、
パーソナリティ障害ではないと思う。

 

でも、性やアイデンティティーや、
今まで生きてきて、
今、生きづらさを抱えていることは確かだから、
それはひとつひとつここで
あなたがちゃんと抱えられるように、
そのお手伝いをここでします。」

 

と言われた。

 

 

 

 

今年の4月、
自分がBPD (Borderline Personality Disorder =境界性パーソナリティ障害)
にあてはまると気づいた時は、救われたように思った。

 

自分が「おかしい」と思っていた、
自分の嫌いなところは、
全部病気のせいなんだとわかったから、
安心した。

 

人に伝えづらいような、
恥ずかしくて言えないような、
軽蔑されそうなことも、
BPD関連の本が全部うまく言語化してくれていて、
「なんだ、病気だったのね、そうかそうか〜」
って、その場は救われた。

 

 


今まで、
ただよくわからない、
自分でも理解しがたい、
正体のない闇を抱え続ける不安と戦っていたように思うけど、
それがいったいどんなものだったのかわかったから、
そうか、私はこの言語化できる、
わかりやすい敵を倒していけばいいだけなのだ!と思った。

 

 

だけど、
そんな新しい気づきを得た私に、


「あんまり自分を病気だって思わないほうがいいんじゃないかな。
病は気からなんて言われるのは嫌だと思うし、それはわかるんだけど、
でも、それ(BPD)ではないと思うよ。」


と言ってくれる人がいた。

 

 

 

その人は私がすごく大事に思う一人で、
大好きだったし、尊敬していたし、
彼女のどんなところも私は好きだった。
彼女は多くは語らないし、私もあまり多くは語らなかったけれど、
私が病気を持っているのを知ってくれていたし、
その上で受け止めてくれる大切な友人の一人だった。

 

けれど私はその言葉を聞いた時、
とても複雑な気持ちになってしまって、


「言いたいことはわかるけれど、
でもそんなこといったって、
何をなおさなきゃいけなくて、何と戦うべきか
わかることって、大事だから私はBPDでいいと思う」


みたいなことを言った。

 

今思えば、
本当は、大事な人のそういう言葉より、
自分がずっと抱えていた苦悩がちゃんとまとめられた「病気」に
頼りたかったのかもしれない。

「”病気”こそが私をわかってくれている」と思っていた。
だから、病気に頼らざるをえなくて、頼りたかった。

 

(それは、BPDに限らず、摂食障害においてもそうだったと思う。)

 

 

その友人は、ああいうふうに私に言いながら、
BPDとはなんなのか、学ぼうとしてくれる姿勢は誰よりもみてとれた。

BPDの本を持っていたからだった。
本当はその本を持っていることをみてすごく感動した。

私はBPDの本を彼女から借りた。

それをきっかけに私はネットの知識だけで済ませていたBPDを、
本を読んでもっと学ぼうと行動するようになった。

彼女がその本を読んで、
BPDを学ぼうとしていたのかと思うと、
今でも涙が出る。
沈黙の先に見えたはずの愛に、身を任せられなかった私が馬鹿らしい。

大きな勘違いかもしれないけれど、
私を理解しようとしてくれていたのかと思えたのに。

 

 

でも、私はBPDを諸悪の根源だと考えていたし、
責任を病気になすりつけて、
病気を言い訳にした。

だから、
病気だと思わなくていい発言をした彼女に反発したり、
ひどいことをしてしまった。

 

 

本当に大事な人を、
自分の手で離してしまったことをさかいに、


「もっとちゃんと向き合ってなおさないと、
自分を幸せにできないしいつまでも人に迷惑をかける」


と、カウンセリングも週1回から週2回にしてもらって、
授業に出られなくても、
カウンセリングはなるべく行くようにした。

 

 

でも、その先で、
彼女と同じようなことを、今日、言われた。

 

 

 

 

彼女とカウンセラーさんに指摘されたそれは、
自分も本当は気づいていたことで、
なんなら摂食発症直後から思っていて、
でもずっと自分の中でも葛藤し続けていたことだった。
病気じゃないと思ったほうがいいのかもしれない、
でも病気の症状が私を襲うことも確かだったから、
どっちの立場に自分を立たせるべきかわからなかった。

結局、ずっと私は「自分は病気」というレッテルを己に貼り続けた。

自分は病気に苦しめられたけど、
自分で自分を病気に縛り付けて、より苦しかった。

 

 

 

でも、生きづらさを抱える身というだけで、
私はもうすべての病気から自由になれる時がきているのかもしれない。

もう、こんな苦しみ、いらないです。

 

 

(とはいえ、病気じゃないのなら、
これから先襲われるかもしれない苦しみを、
なんと説明すればいいのだろう?と戸惑いもある。
恐れや不安も、正直、とてつもなくあるけれど。)

 

 

医学的にはわからないけれど、
心理学的には、って、
そんな風な定義づけも可能なら、
治ったっていえば治ったことになるなら、
心理学的には、私はもう、
摂食障害も、パーソナリティ障害も、適応障害も、
治ったことにしていいですか?

 

いいのかな。

 

いいと思うんだけど、
これからも悲しみに打ちひしがれる時があると思うし、
そんなとき「でも自分は病気じゃない」と気づいて、
ただのダメな自分なのだと認めるのが怖いの。

でも、ダメでもいいのよね、多分。

 

そもそも私には笑い飛ばす力が全然足りない。

そろそろ身につけなれば多分ずっと真面目に病気に引きずられる。

笑えない、笑いを許さないような環境は不健康だから、
もっと自分で自分を笑い飛ばせるように、
ずっと自分が望んでいた「普通」を取り戻せたと、
錯覚していっていいかな。

いいよね。

 

 

治ったよ。

 

もう、治ったよ。

 

これからもいろいろあるけど、
それは病気の症状じゃなくて、
ある一部分の自分という観点で、
それなりに誠意をもって付き合っていくよ、自分と。

 

もう病気ではない。
患者じゃない。

 

そう思っていいかな。

 

 

 

摂食障害も、
BPDも、
適応障害も治った。

今日から、治った。

治った!

 

そう私が高らかに叫んだ時、
私の周りにいてくれた友達とか、
喜んでくれるんじゃないだろうか。

「治った」と認めた今、私の脳内では、
たくさんの人がおめでとうって言ってくれたような感じがして、
勝手に泣いてる。嬉しい。

 

イメージはエヴァのシーン↓

 マジでこんな感じだよ。

 

 

気持ち悪いかしらね、一人でこんなこと思っていて。

でも、本当、そう思うと、嬉しい。

 

私はこれから、

摂食経験者として、BPDや適応や鬱病の気持ちがよくわかる人として、

でも患者ではなく、一個人として、

病気に頼ることなく、

たくさんの人の「生きる」を肯定するべく仕事をして、

生きていこうと思う。

 

 

病気というレッテルを自分ではがしてしまおう。

 

それでも辛い時はあっても、

でももう、自由になっていいかなと感じる。

 

これからは、どうせ苦しむなら、
病気でいる苦しみより、
病気でなくなった苦しみの方に耐えていきたい。

 

 

 

 

とはいえ、
これからも私は足繁くカウンセリングに通おうと思っている。

いろんな自分をいやでも見て、
自分を解放して、
自分を抱えて、たくさん幸せになれるように。

それは病気のためじゃなくて、自分のために!

 

 

 

できればここまで読んでくれた人の中で、

少しでも生きづらさを感じることがあれば、

ちょっとつらいなと思うことがあれば、

カウンセリングを心の病気予防程度にとらえ、

気楽に受けて、楽になってほしいなと思います。

 

 

 

長々書いたこのブログでいいたいのは、

私はもう精神疾患からさようならができたということと、

そして辛いことに耐えている人はカウンセリングに行ってくれということ。

 

 

 

おめでとう。

喜ばしいよ、誇らしいよ。

生きる支え

孤独は心に悪い。

 

人間は他者との繋がりが成立してはじめて
自分の存在を直に感じられる。

 

一人で生きているだけでは、
自分が生存している正当な理由を見失ってしまう。

 

だから、
誰かの役に立てることが喜びであり、
友人をつくり、
愛を誓いあったりする。

 

誰かのためになることが、
本当はもっとも自分のためになる世界だ。

 

人とのコミュニケーションが成立してこそ、
人と繋がりを持ってこそ、
私たちは生きられるのであり、
こういうものが生きる支えになっている。

これがないと、生きるのは途端に難しく、苦しくなる。

 

 

そう思うと、
なんだかわけがわからなくならないか。

 

私たちは生まれて、
体の寿命が来るまで、
自然と来る死を受け入れるその瞬間まで、
生きる支えを常に必要としているのだ。

なんだか気持ちが悪い。

なんでそんなことしないといけないんだろうな。
生まれてから、ずっと何かを支えにしないと生きていけないなんて、
みっともなく惨めで、そんなのずっとつらそう。

 

自ら死を選ばないためにも、
私も生きる支えを少しでも増やして、
とにかく自分を生かさなければならないなんてなあ。

 

 

正直、
生きる意味とか、生まれた意味を探るのは
あまりにナンセンスだと思う。

そんなの追い求めればつらいだけだし、
生き方を制限するだけで、
そんなの考えないほうがいいはずだと私は思う。

 


だけど、
どんな生物だってそうなのだろうけれど、
生まれることだけは、
私が「河原由貴」となってからは選択していないのに、
生き続けることは選択しないといけない。

(特定の宗教では、人は生まれることを選んできたとか言うから、
あえて、私は私がこの私になってからは選択していないと書いたよ)

生き続けるために、
知らず知らずに生きる支えを探している。

 

ここに何の意味があるのだろうな。
何をしなければいけないんだろうな。
なんで生き続ければいけないんだろうな…。

 

なんだこれ、なんなんだ。

 

生きてから死ぬまで、
生きることだけは選んでなかったのに、
生きるために社会的活動をし続けることがほとんど不可欠であり、
それは苦しくも、喜びになるのであり、
もっとも自己の生存時間を伸ばしてくれる支えになってくれるなんて。

 

ああもう本当に面倒くさいよ。

 

 

こんなこと考えないほうが幸せだとか言うんだろう。
考えすぎだとか言うんだろう。

 

ありがたいことに、ここ最近
今私をもっとも苦しめる悩みは何と聞いてくれる人が何人かいて、
恐る恐る自分の考えを伝えると、

「それは考えすぎだ」とか
「そう考えるのはおこがましい」とか

言われるんだ。

なんだよそれ。

 

知ってるよ、
自分が自分を一番苦しめていることも、
考えすぎてしまうことも、
変な決めつけをしてしまっていることも。

だから苦しいんだろう。

 


聞いてくれてありがとう、
でも悪いところを指摘してほしいんじゃなくて、
ただ、わかってくれればいいんだ。

 

私の苦悩を解決してほしいとは思わないよ。

 

ただ私の考えていることをそのまま受け入れてくれれば、
私は少しだけでも
「生きていてもいいのかな」「存在していていいのかな」
って、そう思えると思うんだ。

 

 

ジェーン・スーさんがね、
「腐らないひとに分け前がくるシステムになってるんだこの世の中は」
って言っていたから、
なんとか腐らないように
生きたいと思っているよ。

 

でも希望を持ち続けるのって、すごくすごく大変だよね。

 

様々な夢を持ち始めてから、
どんどん自分がダメになっていっていて、
腐らないことが難しいことだって実感している。

 

天国ってどんなところだろうな、
この世で頑張らないといけないんだろうか。

 

自殺したら地獄に行くっていう宗教を
物心ついた頃からハタチ頃まで信じていたけど、
今思うと、これ、ひどい話だなと思うよ。
これが真実ならば、神様ってひどいよな。

辛い思いして、
もうどうしようもなくなって自ら死を選んだ人は、
死んだ世界ではもう恵まれて、
たくさん幸せな思いをさせてやればいいじゃないか。

楽になりたいなぁ、
愛して、愛されたいなぁ。

 

幸せになりたいなぁ。

 

私が生きていることが、認められるどこかにいきたい。

何もない自分でも、
マイナスばかりな自分でも、
許されて、愛される世界にいきたい。

 

天国ってそういう場所のことをいうんじゃないのか。

腐らず、希望を捨てず。

どこの環境にいっても、

どんな役柄が自分についても、

私はなかなか変われない。

 

 

高校卒業後の一年間は、「アメリカにいって、本当の(大)学生になれば」、

アメリカにいた頃は、「大学やめて、社会人になれば」、

制作会社で働いた半年間は、「この不自由の多い日常を抜け出せれば」、

暇なフリーターの頃は、「また大学にいって勉強すれば」…

 

「私はもっともっと楽になれて、

きっと抱えている病気もよくなって、

毎日楽しい日々を過ごすのだ」

 

と思っていた。

 

 

 

確かに、

転々とし続け、生きている時間を重ねていったことで、

自分の満足するところにはまだまだ達していないけれど、

病気は少しずつ回復しているはずだ。

 

毎日たくさんの時間をかけて自分に絶望し、

でもその中で何かを見つけようと必死で、

外部の刺激を受けつつたくさんの発見ができた。

自分が見たくない自分とも、はじめて向き合った。

ここまでやって変わらないわけがないだろうと思うこともある。

いろいろなことがあって、その中で自分もそれなりに努力をしたと思っている。

 

 

 

ただ、その生き方に私は気持ち悪さも感じている。

自分の人生を否定したくないから、「悔いはない」というけれど、

それでも割り切れないことが多い。

 

いま、私の友人の多くが大学4年生になり、

就職活動に勤しんでいる。

私は日本で大学に入学したばかりである。

 

そんな、学生としての先輩である数人の友人たちが、

生きてきた年数は違わないのに、

「ゆきはいろんな経験してきたね」と言ってくれる。

これ、だいたいいい感じで言ってくれている。たぶん。

皮肉とか、攻撃のつもりではない、はずである。

 

でも、周りの友人だって種類は違えど、

たくさんの経験を同じようにしているのに、

私はマイナーな経歴を持ってしまったが故に、

これまでの生き様を経験量の多さと捉えられることに疑問もある。

 

それは違うのではないか。

 

そんなことを言われるようになってしまっている

私というのが、気持ち悪い。

 

 

私は経験量を盾にして人に説教するような年増にはなりたくない。

いつまでもフレッシュでいたい。

 

派手に見える経験があればあるほど、

「たくさんのことを経験している」と思われるのは確かだろう。

 

そういう視点で自分を見てみると、

アメリカに大学進学しにいき、

すぐ中退してひっそりと帰り奈良で居候、

フルタイムでアルバイトをして、21で大学受験…

 

話せるネタとしては多いかもしれないけれど、

だから他より経験が豊富とは言ってはいけない気がする。

 

 

でも、誰かにそう言われるということは、

私はこの変な生き方を、

誇れるわけではない(真似をしてはいけない)生き方を、

そう思われるくらい人に伝えてきたわけだ。

 

「私は経験量を盾にして人に説教するような年増にはなりたくない。」

と書いたが、

経験量を盾に、苦労アピールや悲劇アピールを周りにしていたのだろうかと

反省会がはじまる。多分そうだ。恥ずかしいやつだ。

 

 

派手に見える経験だけが経験の量にカウントされるわけではない。

自分の内だけでくすぶっている思いがある中で

一見何もないように過ごす毎日だって、立派な経験じゃないか。

みんな、言わないだけで、それぞれの懊悩があり、

ここまで立派に生きている。

 

本質に向き合いきらずに逃げたこの私の生き方に、

何か特別感を持って接せられることが、

ひどく申し訳なくなる。消えたくなる。

弱くて、品がなかっただけだ。量が他より豊富なわけではない。 

量は周りだって同じだろう。

 

それに、病気を経て、豊かな経験が身についた、というよりも、

本当は、病気から逃げようとしているうちに、

想像していなかったところにたどり着き、

その場で生き続けるしかなかっただけなのだ。

 

与えられた場で長く長く存在し続ける周りの人々には及ばない。

大学で3年過ごしてきた友人が眩しいよ。

 

 

 

 

でも、量が多いというのは

これまでの日々はマイナスなことばかりの経験ではなくて(あたりまえだけど)、

そういうドロップアウト期間があったおかげで、

旧友とそれまで以上に深く繋がり分かり合えて、

こういった自分を理解してくれる、愛に溢れた人々とも新しく出会えた。

 

ドロップアウトして、自分なりの経験を積み重ねてきたから、

だんだん人に頼れるようになった。少しずつだ。少しだけ変わった。

私は未だに人に頼るのが下手で、

そもそも人に頼らないと苦しむ無力な自分が嫌なのだけれど、

しんどくなったらなるべく気のおけない友達に連絡できるようになった。

経験がこういう自分を作ってくれた。

これは私なりの経験量が、質に繋がった成功例の一つだと言っていいはずだ。

 

でも、まだまだ多くの部分で変わっていない。

 

 

なぜ変われないのか。

なぜ人に頼れないのか。

なぜこんなにも弱いままなのか。

 

 

自分の面倒ごとに、人を巻き込んではいけないと思っているからだろう。

 

その気持ちを深く掘り下げると、

どうしてもたどりついてしまう答えは、

 

「自分が生きていることが迷惑でしかない」

 

ということ。

 

 

 

被害妄想が過ぎているかもしれない。

考えすぎだよと言われるかもしれない。

 

 

けれど、

生きているとお金がかかるのは当然だ。

誰かとぶつかり不快にさせることもある。

また、自分の面倒な部分や、悩みを打ち明けてしまえば、

相手の忙しい時間を奪ってしまうし、

ハッピーな気持ちにはさせられない。

自分という悩み事が相手の中に増えるかもしれない。

 

自分の人生に相手を巻き込むことが、本当に苦しい。

 

そんなことになるなら、

誰かの迷惑になってしまうなら、

自分が誰かの記憶に「マイナスの存在」として残ってしまうなら、

この社会で生きるのは嫌になる。

 

たとえば私が今大学に通っていること。

これはいつか誰かに還元できることでも、

今、親の経済状況を逼迫している事実は消えない。

 

こんな風に、長期的な利益を考えられないほど、

また、それを考えて心が持ち直せるほど、強くない。

 

今現在誰かに不利益をもたらし、

誰かが私のせいで我慢をしていることが耐えられない。

 

 

 

そういう思いが膨れ上がって、

つい最近は、病気のことも理解してくれていた恋人も、

自分から離してしまった。

 

 

 

付き合っていた彼は口下手だったし、

付き合い始めの頃は病気をいじってくるデリカシーに疑問を抱くこともあった。

 

あのときは信じられなかったけど、

本当に芯の部分では心配してくれていたとだんだんとわかった。

私がよくなることをいつも信じて接してくれていた彼だった。

愛情深かった。

 

だからこそ、すぐによくなることができない自分に無力さを感じたし、

これ以上自分が辛い辛いと言いまわって頼ることができなかった。

相手に見合う人間でないことが怖かった。

 

辛いときに頼ってばかりいては、

いまは「迷惑とは思ってないよ」といってくれている彼も、

いつか絶対、私を負担に思うだろう。

私は嫌われて、捨てられてしまうと思った。

相手の器量を信頼するより、被害妄想が勝ってしまった。

傷つくのをどこまでも怖がる、保身ばかりの人間なのだ。

 

 

 

 

加えて、私は彼に大きく憧れている分、

仕事に一生懸命な彼にいつも寂しさを感じていた。

 

 

私は恋愛に、親にはもらえなかった満足感を得ようとしている。

とてもダサくて気持ちが悪いことだけれど、仕方ない。

私の両親はともに大いに仕事人間だったから、

自分が優先順位として上位にいると感じられたことはほとんどない。

たとえ私たち家族のために仕事をしているとはいえ、

私がいなければここまで必死に仕事をしなくてすんだかもしれないわけだし、

私と直接関わることが少なかった分、そう思ってしまうのは仕方がなかった。

 

 

 

私は、いつも、どうか愛する人の一番になりたかった。

恋愛ではそれが無理だと思ってしまい、いつも苦しかった。

(思えば過去の恋愛も、一番を感じられない恋愛に身を投じて苦しんでいたな。)

 

相手の大切にしていることや一生懸命に取り組んでいることを

相手の人生の中でぽっと出の私がとやかく言う資格はない。

 

恋人にとって優先順位の高いもの(=今回は仕事)と、

せめて同等になりたくても、

それほどの価値や魅力が私にはないことも確かなのは理解していた。

どんなわがままも、私の寂しい主張も、相手の負担になる。

喧嘩になってしまう。

どうしようもないことに不満ばかり言ってしまった。

一番でないことがわかると、

自分の価値の小ささを突きつけられた気がして、

いつも勝手に苦しんでいたからだ。

 

 

一つここで言っておくべきことは、

相手は非情な人間ではない。

先述した通り、本来とても慈愛に満ちた人だった。

ただ、私の恋愛への向き合い方、求めるものと違かった。

だから私の被害妄想は増したのだろう。

 

彼は自律していて、私よりはるかに大人だった。

 

 

恥をしのんで言うが、私はいつも愛に飢えていた。

自分の性にも疑問があるし、不確かなままでいる。

そして摂食障害を患うボーダーライン障害者で、

自己肯定感も低いために卑屈さが出て相手の気分を悪くしてしまう。

 

こんな私を受け入れてくれたから、素晴らしい人だった。

 

 

だから、そんな愛する人が自分のせいで苦しみ、

心の悩みが増えてしまうのは絶対に嫌だった。

 

相手のそんな姿は絶対に見たくないし、

自分がそんな印象の残り方をするのも怖かった。

 

いつか捨てられて大きく傷付くくらいなら、

自分から離してしまおうとする防衛反応が働いて、

彼の愛の船に乗り切れず、自分から離れていった。

 

 

 

こういう、弱くてどうしようもない自分から目を背けては、

どこにいっても、誰といても、

私は自ら幸せを突き放す。

 

恐ろしいことである。

 

 

 

私は私と闘い続けなければいけない。

もっともっと、幸せになりたいからだ。

最大限に、幸せでありたいのだ。

 

 

今は自分が不安定すぎて、

恵まれた環境をありがたがれない、

残念で可哀想なやつでいる。

 

 

どうすれば、もっと幸せになれるのだ。

どうすれば、病気からさよならができるのだ。

どうすれば、愛する人の愛に素直になれるのか。

どうすれば、私は私になれるのか。

 

 

 

多分、生き続けるしかない。

生きる選択が、私にとって、闘うということだ。

時間がたてば、多分ボーダーはよくなると感じるし、

本来の自分を自分なりに構築していって、

愛する人と幸せになり、自己実現できていくと思う。

だから、そのためには生き続けなければならない。

 

毎日、

生きている罪悪感と、

自分が自分であることの絶望感が拭えず、

もう生きているのが怖くなる。

どうなるかもわからない未来のために、

どこまで続くかわからないこの人生を引き延ばすことを考えるだけで

疲れて、しんどくなってしまう。

いきなり電車で泣き出してしまうほど、苦しい。

 

 

もう本当は嫌だ、生きるのが、本当に嫌だ。

 

 

でも、

そう思っても、

死んでもいいなんて、自分にもう絶対言わない。

「死にたい」は思っても、「死のう」とは思わせない。

 

 

腐らず、希望を捨てず、寿命が果てるまで、生きようと思うのだ。

 

 

これが私の、今の一番の目標である。

 

全員で高みを目指そうとする大学で、

私は、ただ普通を目指している。

悪くないだろう。ぜったい、間違っていないだろう。

 

私はとにかく、生きながらえる。

 

悲しみの果てにある、素晴らしい日々をいつまでも追い続けて、

生を選択し続けるのだ。

 

その一瞬一瞬の選択の積み重ねの先で、

私はいつか絶対に、輝こうと思っている。

 

 

こんな私を見守ってくれる人はいますか?

 

 

いなくても、それでも私は生き続けるよ。

そうすることしか、今はできないからね。

 

 

負けるなよ。お願いだから。

世界睡眠会議presents 「睡眠は踊る」より豆知識

睡眠に興味があり、

質の向上を考えている、

そしてトークショー出演の

ジェーンスーさん、中野信子さんに

とても興味があるので、

行ってきました。

 

そこで習ったこと。

きっと、睡眠に関することで悩む人も

少なからずいると思うので、

その人たちの役に立てたら、

そして自身の備忘録のために、

書き残しておきます。

 

 

 

①朝型・夜型は遺伝的

 

 

朝型の方が「正し」くて、

夜型はダメ人間…

みたいに思われがちな昨今。

特に、早寝早起きは美容にいいだとか、

ビジネスにとってもいいだとか、

色々言われるけれど、

本当は遺伝的に朝型・夜型が決まっている。

 

そして、

人の一生の中でも、

夜型になりやすい時期と朝型になりやすい時期があるそう。

夜型に最もなりやすいのが10代後半。

この頃は朝型も夜型になりやすく、

夜型はこの時期になると夜明け過ぎまで起きてられる。

 

だから、

睡眠で人間的に良いか悪いかは一概に決められない。

 

 

②人間のリズムは24時間ではない

 

だいたい24時間なだけで、

きっちり24時間じゃなく、24+?時間だとか。

だから後ろ倒しはしやすく、

そのために夜更かしは楽にできる。

寝る時間の前倒しは中々難しいのは万人共通?

体のリズム的に仕方ない

 

 

③寝つきを良くするためには少し難しいパズルを

 

眠くないとき、

眠りたいとき、

科学的に最も眠りを誘うと現在言われているのが、

少し難しいパズルを解くということ。

数独をやったり、クロスワードをやったり。

 

 

④寝る前のスマホは確かに良くない

 

日々のストレス解消をしなければ

睡眠も上手く取れなくなるので、

スマホがストレス解消を助けるのなら制限されるものではないけれど、

やはり寝る直前は良くないみたい。

入眠儀式になるものならいいけれど、

上にあげたような代替入眠儀式を探そう。

 

 

⑤睡眠中に音を流していてもいい

 

たまに、

睡眠中に音楽をかけると、

脳が働いてしまってよく休めない、

という話を聞くことがあるけれど、

寝付くためにラジオを聞いたり音楽を聞くのは別にいいみたい。

 

というのも、睡眠中に脳は休まっているというが、

ホルモンの分泌等で使う脳の部分は働いているし、

休めるところが休んでいるだけなので、

そもそも睡眠中も脳は働いているもの。

 

確かに耳が音を受け入れてはいるものの、

その音を分析する脳の部分は使われていないから大丈夫らしい。

 

特にラジオだけど、

面白すぎるラジオは覚醒してしまうから、

どちらかというと説明口調のもの

(YouTubeにある解説動画の音を聞いたり、

講義系のポッドキャストなど)

を聞くといいらしい。

 

 

⑥睡眠前のお酒は老ける

 

睡眠直前にお酒を飲むと、

なにかのバランスが崩れるので(詳しくは忘れた)、

健康上は問題ないが、

老け込むスピードは早くなるかも。

 

 

⑦女性は睡眠弱者

 

体の構造的に、

男性よりも睡眠やホルモンのリズムが不安定なので、

望んでいないのにも関わらず

眠りが浅くなったり深くなったりしやすいので、 

本人の意思が弱いなどということではない。

 

ただ過労に気をつけるなど、

日頃から意識してあげることで改善はされる。

 

 

⑧眠りのゴールデンタイムは人それぞれ

 

よく、

22-3時の間は寝てた方が成長ホルモンが、

と言うけれど、

ホルモンの分泌は

眠り始めてからの時間でなされるものなので、

実は人それぞれだったり。

 

 

⑨生活リズムは良い方が良い眠りになる

 

とはいえ、

上で書いたことは、

あくまで「だからそんなに深刻に考えなくてもいいよ」というものであって、

睡眠時間の長さや、

日中の活動量は気にする必要アリ。

 

たとえば睡眠時間が8時間より短くなると

肥満の可能性が高まるし、

カロリー摂取量が変わる。

これは、睡眠時間が減ることで

食欲を抑える役割のレプチンが少なくなり、

食欲中枢を刺激するグレリンが増えることに起因すると。

 

つまりこの場合、

睡眠を気にしてあげることで生活リズムもよくなるって感じかな?

 

それと、

日中の活動量が少ないと寝付けづらくなったり、

手足が冷えるとこれまた寝付けなくなるなど、

日々の生活リズムを狂わせない・体調に気を遣うことが、

眠りの質を高める秘訣であるのは間違いなさそう。

 

(冷えは自分も大きな不調なので

ちゃんと記しておくと、

睡眠に入る流れとして、

深部体温の下降が眠りにつながるのだけれど、

深部体温が下降する=深部の熱が体の表面を通して外に逃げる

ことなので、

眠い時は体が熱くなっているように、

深部体温が下降し表面の体温があがると眠くなる。

 

ただここで表面が冷えてしまってると、深部の熱が逃げられなくて、

眠りづらくなるのだそう。

冷えは不調を引き起こすだけでなく、

睡眠にも影響があるとのこと…

ほんと、治さないと…)

 

 

 

 

確実にまだあるんだけど、とりあえずここまで。

また思い出したら書きます。