「生きる」ということ

今世間が注目してる話題の一つが、

ある若い女優さんが出家するという話。

 

だいたい、

 

・仕事を途中で放棄すること

・新興宗教の信者であったこと

・事務所の待遇

 

と、

まぁその辺に対しての意見が多いように思うんですが、

私も一番はじめは

「えっ突然出家???」

と耳を疑い目を疑い、

ニュースで「契約はまだ残っている」っていうから、

そのあたりに対して

「それどうなんだ」と率直に思ってしまいました。

 

だけど、

思ったあとすぐに、

「私人のこと言えない…

逃げてばかりで今生きてるのに…」

と気付いて、苦しくなりました。

この辺りについて思ったことを書きます。

 

 

 

 

命を絶つことを考えるほどの状態で

生き続けるというのが、

どんなに辛いか、よくわかります。

 

今回の一件にどんな背景があったのか、

私は全くわからないので、

何かを、誰かを、

強く非難するということは出来ません。

同じように、全面的に肯定することも出来ません。

 

だけど、

私が一つ思うことは、

そんなにも苦しい状況だったなら、

少しでも心が休まる方向に目を向けて、

その道を選択できたなら、

それは良かったなと思うのです。

 

 

 

映画を作る人が、

「どれだけの人が携わっているのか、どれだけ迷惑するか考えろ」

と言っているのを見かけました。

 

私も、本当に短い期間ではありましたが、

15秒の映像を作る世界をこの目で見て、

なんと多くの人が、

15秒のために、

たくさんの能力と時間とお金をかけて、

精一杯働いているのだろうかと、

その世界に感動しました。

 

 

15秒でさえ、本当に大変だったのに、

映画ともなれば、

何時間もかかる映像であり、

エンドロール見れば分かる通り、

倍以上の人手と労力がかかっていることでしょう。

 

だから、

そんな自分たちの努力が

1人の勝手な決断によって

踏み躙られたと思う人は憤りを感じるだろうし、

はじめは冷静にいられないんだろうと、

そう思います。

 

 

ただ、あまりに多くの人が、

そして発言に影響のある人が、

 

「途中でやめるのはプロとして失格」

「会社員はそんな簡単に仕事を辞められない」

「自分勝手すぎる」

 

という持論を展開していることに、ショックを受けました。

 

 

 

この一件に関して、

私も精神を壊して、

今も治らず毎日闘って生きてる以上、

ある意味まだまだギリギリなので、

勝手に自分を重ねて、

世の反応を見てしまいます。

 

 

先ほど書いた通り、

15秒という時間にたくさんの大人が

力を合わせる姿を見て、

昔から憧れていた世界に、

私は改めて尊敬の念を抱きました。


しかしそんな業界の、

トップに君臨する会社で起きた悲劇が、
去年大きなニュースとなりました。

 

 

「勝手に死んで迷惑してる。」

という人も見受けられたし、

あの一件で出た影響が、

必ずしもいい方向にばかり作用しているわけではないこともあります。

 

でもほとんど多くの人は、

あのニュースに対して

 

「やめればよかった」

「相談する場があれば」

「逃げてもいいのに」

「あんな未来ある若者を殺した罪は重い」

 

なんて言ってたくせに、

本当に仕事を残したまま逃げた人を見ると、

そんな風に言う流れが強いんだなあ、

と、悲しくなりました。

 

これじゃあまだ、

「辛い」なんて言いづらいよね。

言っても相手にされないし。

 

なんせ私も、

途中でやるべきことを投げ出して、

自殺した女性社員や

話題の女優さんほどではなくとも

多方面に迷惑をかけ、

そうはわかっていてもそんなこと考える余裕もなく、

逃げました。

多分、今も逃げて逃げて生きています。

 

だから、

この世論を見ると、キツかった。

 

 

それに対し、

「逃げることは悪いことじゃない」

「生き延びるためには仕方ない」

「精神が追いつかない人に責任を求めるな」

といった旨の主張を見る度に、

その通りだと思ったし、

Twitterではそんなツイートをリツイートしました。

賛同するから自分のタイムラインに刻むのです。

 

 

…だけど、

そういう意見に賛同するということは、

今のこの、逃げてばかりの自分自身を肯定し、

弱い自分・ダメな自分を認め、

甘やかしてることになってるのではないかと、

そうも思っていました。

だから、少し、そんな自分が嫌でした。

 

私は、人の気持ちを思いやり、

追い詰められた状況に寄り添うことのできる、

少しばかり優しい人間になれたのかもしれないけど、

依然として人の役に立つ何かを出来ていません。

 

むしろ、迷惑かけっぱなしで、

周りにとっても触れづらい人の一人のようになってる今の自分が、

活躍できる居場所が見つけられていなくて、

まだまだこの社会で生きれていないのです。

 

「勝手すぎる」という意見ばかり見たせいで、

「そんなことより生の方が大事だろう」という

自分の気持ちがブレました。

 

東京にいるのに、東京で生きれていない、

そんな辛さから、自分を肯定したくて、

そういった言葉に賛同するというよりも、

自分が癒されているのではないかと、

そう思っていました。

 

 

そんな時に、

伊集院光さんがラジオで発言したことについてのニュースを目にしました。

 

・清水富美加への「仕事放棄」批判に異論 伊集院光「『死にたい』と言っている人に...」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
http://srd.yahoo.jp/new/hl?a=20170214-00000008-jct-ent

 

・伊集院光、清水富美加を巡る騒動に「意見が一色なことに気持ち悪さを感じる」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
http://srd.yahoo.jp/new/hl?a=20170214-00000112-sph-ent

 

 

この記事で伊集院さんが言っていたことを見て、

心がとても落ち着いたんです。

私の感じてたことは何もおかしくなかったなと気付けたんです。

 

ラジオを聴き直すと、

伊集院さんが

「(有名人の多くの批判が)正しい正しくないかじゃなくて参考にならない」と言っていました。

 

必ずしも、「正しい」「正しくない」で見なくてもいいのか、と思いました。

 

 

「私は『正しくない』生き方をしているわけでも、

『正しくない』考え方をしているわけでもなかった。」

 

「その人は、その言葉は、

自分を救えるものなのか、

そういう点で、『参考になること』に

目を向けていいのか。」

 

「『こうでなきゃいけない』っていう、

正しさばかりを考えて苦しくなる必要もないのか。」

 

そう思えました。

 

 

私は、

未来が見えない、先行きの見えない、

そんな不安の闇を、高校三年生の秋から、

ずっと抱えていて、

3年経った今でもそれが変わっていないという事実に、

毎日恐怖を感じて、苦しくなります。

今でも、一人でいる時、急に泣き出すこともあって、

そんな自分が嫌だけど、

そんな自分がまだ残っています。

 

それでも、

人や、音楽や、映画や、本や、ラジオや、ミュージカルなど、

様々なものから力をもらって、今なんとか

生きています。

 

誰かの発した、書いた言葉は、

そんな見えない恐怖を

いつも少しずつ和らげてくれて、

ここまで私を生かしてくれました。

 

言葉に助けられるだけでは、

事態は何も変わっていないように思いますが、

確実に、生きてる自分が存在していること、

それは一つの結果です。

 

まだ見通しは何もないけれど、

それはまだとても辛いけれど、

今生きてるということは、

たくさんの事物に力をもらって、

助けられ、支えられ、

生への選択をし続けた、

そんな私がいるということです。

 

女優さんにとって、

自分を助けてくれた存在が、

周りの大人ではなく、宗教だった。

信仰心と、その教えが救ったのでしょう。

 

どうであれ、

生きていてくれたことは奇跡だと思います。

 

 

人は、

「ない」結果は見えません。

今ある結果しか見えないものです。

彼女が死んで「ない」から、

その点を考慮するのは難しいことでしょう。

だけどこのニュースの裏には、

早すぎる死を回避できたという結果があると、私は思います。

 

「死にたい」と言っていたのが本当かわからないし、

その気持ちがどこまでのものだったかわからないけれど、

生きているということは、

頑張って生き延びたということです。

この女優さんに限らず、

誰しもにとって、それは不変の事実だと思います。

 

死んでないって、すごいこと。

本当にありがたいこと。

 

 

もちろん、

なるべく、生きるに加えて、

自分の責務を全うできるように生きることができたら、

それが一番望ましいでしょう。

でも、皆が同じように出来るわけではない。

 

迷惑をかけるなといったって、

人に迷惑をかけないのはまず無理だと思います。生きる上では。

 

迷惑の度合いが大きくなりすぎないまでに、

小さな迷惑をかけあい、それを許し、

そしてその中で助け合うことが、

人を生かすことなんじゃないかと思います。

 

何が正しいかなんてわからないけれど、

生きる希望を見失わずにいられたなら、

それはそれでいいんじゃないか。

とはいえ、

もしも死を選ぶことが参考になるならそれでもいいんだろうし。

 

少しでも心が休まる方向に向かっていければ、それは生きる上での成功なんじゃないでしょうか。

 

何を選び取るかは自由だけど、

何を選んでも幸せになれるようにしていけば、

それはもうものすごい成功かもね。

 

きっとこれから色んなことがあって、

この女優さんを取り巻く環境でも

問題は起き続けるだろうし、

それは私にもそうだろうし、

誰にとってもそうでしょう。

 

あの人も、私も、周りの大切な人たちも、

少しでもたくさん幸せに生きれるといいね。

 

難しいようで簡単なようで、やっぱり難しいようで、でも実は簡単なような。生きるってそんな感じですね。

 

もうちょっと頑張って生きてみます。

 

 

泣こう。それでまた、生きよう。

頑張ろう!ってなってる時に

突然リターンが来ると、

全然頑張れなくなっちゃって、

頑張るどころか普通の生活

普通の人と同じようなこともできない

下等生物になってしまう。

片付けも掃除も、

加えて起き上がることさえ出来ない。

 

 

「もう頑張れない」

「でも頑張りたいのに」

「頑張らせてくれよ…頑張りたいんだよ…でも今は無理、なんでかなぁ」

ってグズグズ泣いた。泣ける。

なんでこんな自分なんだろうって、

頑張りたいんだよ本当に。

頑張りたいのに、頑張れなくて、

頑張ることさえ許してくれないのかお前はって

自分の中に潜む何かに怒りをぶつけたら

涙が抑えきれなかった。

 

頑張りたいだけじゃん。

なんでそれさえさせてくれないんだよ。

 

 

「あ、頑張れない、もうダメだ」ってなると、

急に頭が真っ白になって、

歩くのもめちゃくちゃ遅くなってしまって、

つまりは思い方一つで行動も変わるんだなということなので、

どうにか歩く速度を上げようと思ったけど、

思い方を変えるのも結構難しいから、

結局あんまりうまくいかなかった。

 

 

誰に見られてもいいや、というか

そんなこと思う暇もなく、

溢れる涙をそのままにして歩いた。

 

こういう時って、好きな音楽を聴くよりも、

外でも仕事場でも、

思いっきり泣いてみたほうがスッキリするなって

そう実感できた。

 

 

 

頑張らせてくれない病気もあるけど、

で、それは定期的にリターンしてきて

その時はものすごく力を帯びていて、

私の頑張りを全て無駄にしてくるんだけど、

まぁそんな時は泣こう。

泣きたい時は泣こう。

どうにもなんない。

太刀打ちできない!!って降参しよう。

本当はしたくないんだけど、

まだ勝てないんだもんマジで。

 

 

まだまだ時間はかかるけど、

頑張れないけどなんとか生きて、

いつか誰かのためになる人生にしよう。

 

それまでは自分と闘うしかないね。

仮説

摂食障害についての自己の発見です。

ただ辛いってこと言ってるだけでもあるので、

こういうの嫌な人は今すぐ戻ってください。

すみません。

でも、まぁいつか誰かの役に立つはずだと思ってる大したことない発見メモとして。

 

 

 

 

「食べる」って、

能動的行為の中で最も差別を受けないものだなと思った。

 

言葉を書く(ブログ、詩、文、物語等)

とか

芸術作品を作る(絵、彫刻等)

って、本来はそうであっていいのかはわからないけれど、

そこに上手い下手とか、

能力というものが存在する(ようにみえる)。

評価が生まれる世界。

 

だけど、

「食べる」ことって、

人に見せない限り、

物を買う場所を複数箇所作れば、

評価を受けることもない

能動的行為の一環であって、

やりやすい。

 

でも満たされることはないし、

能動的といっても、

したくてしてる行動ではないので、

そう言ってもいいのかわからないけれど、

そういうことだからするのかなと。

 

映画を観るとか、

文学に触れるとか、

芸術作品を鑑賞するとか、

もちろんそういうものを通して

自ら考えインスピレーションを受けて何かに活かせることもあるのだけれど、

それらは全て、

自分でない他人が創り出したモノを、

こちらが受け取るという行為。

 

それだけじゃ満たしきれない。

 

満たされないから、

満たされるには、

自分も何かを表現したい。

 

能動的な行為で、

くすぶった思いを昇華させたい。

 

じゃあどうすればいいか。

 

 

手っ取り早いし(本当は何の解決にもならないとわかっているけど)、

楽だし(罪悪感と自己嫌悪に苛まれるので結果楽ではない)、

評価されない世界だし(吐けば“見た目には”出ない)、

だから摂食障害に走るのかな(拒食というコントロールの行動、過食という食に依存して居場所を求める行動)。

 

 

 

原因とか仕組みを知ったところで

太刀打ちできるようなものではないんだけどね。

 

壊れた満腹中枢が正常化するのには時間がかかるので、

そして精神疾患は治療に時間がかかるので

どうか今無理な制限を自分に課してる人(ダイエットに限らず、日々の生活で無理してる人)は本当に逃げて、やめてあげて。

もういやだよ〜。きつい。

 

 

摂食障害で食に頼るのは、

「自分が何かを“してる”」実感がある上に「(悪い)評価されない」という一見優しい世界だからなんだろうなぁ、

でもこれで癒されたことは一度もないから、

優しいどころか厳しすぎるし、

一度ハマると抜け出しづらい。

 

突然リターンって本当につらい。

一進一退でも、ちょっとずつ良くなってるはずなんだけど、

退行部分がものすごく大きく見えてしまって、進行部分が全て台無しになってしまったかのように思える。

そんなことないんだって気付かせてくれる何かがあればいいんだけど、

中々自分自身で、肥大化した負の部分を冷静に見ることができない。

 

早く抜け出したいなぁ、明日はいい日だといいなぁ。

泣いてしまう。

自分が親になったらの話

‪子供は親が完全だと思う。

親こそ唯一神であり絶対神だと思う節がある。

まだ広い社会を知らないから仕方ない。

 

 

だから親から怒られると、

「そこが自分の欠点」だと思うし、

理不尽な怒りをぶつけられたら、

「自分が無価値だから」「自分が悪い子だから」

とほぼ100%思ってしまう。

 

かといって親も人間だから

当たってしまうこともあるし、

教育を飛び越えて、必要以上に怒ることもあると思う。

 

それなら子供が小さい時から、

「お母さんはあなたを怒ることがあるけど、それはあなたが不完全だからではない」

っていうことを常日頃から言っておく必要があると思う。

 

怒るけど、

根本には愛しかないし、

憎くて怒るわけでも、

あなたが存在悪なわけでもないんだよと

怒る頻度の何倍も伝えておこう。

 

 

もちろん愛はその何千倍。

 

甘やかすんじゃなくて、

わたしの子供だから大丈夫って思うような強い自信のために!

 

あとこれは旦那さんに接する時も大事なことだね。

自意識が邪魔をしてためらっていた私ですけれど、

自意識が邪魔をして、
買いたい本が買えないっていうこと、ないですか。

まあ結局買えちゃうんですけど、
どうしてもレジで出すのが恥ずかしい。

 

参考書を買う時は「ここができないんだ」

美容本を買う時は「お前でもそんなの気にしちゃってるんだ」

自己啓発本を買う時は「怪しいものにとりつかれちゃって」

流行りの本を買う時は「あ〜、ミーハーなのかな」

とか…

 

いちいちそんなことを気にしてしまっていました。

 

でも、

本を買うって、その人にとって、

割と大きなことだと思うんです。

 

ちゃんと、何かに対する答えを求めているから、
本を買うわけじゃないですか。

必死で、本気で生きてるってことだと思うんです。

 

文学に触れるのも、実用書に触れるのも、

なにか得られるものがあって、

それが好きだから自分のものにするんでしょうし。

 

 

ま、でもやっぱり、

ある本を持っている、買う
=その分野を少しでも向上させたい
=そのことを気にしている/今の自分には足りていない

 

と、まるで「自分にはこんな欠点がありますよ」と

宣言しているようで、恥ずかしく思ってしまう節があります。

(彼氏が家にきて「こんな本持ってるなんて知られたくない」という思いがあるくらい)

 

 

一人で考えてもわからないことが数多とあるので、

いろんな人の意見を聞きたいし、

手っ取り早く自分のペースで手がかりをつかみたい。

 

確かに恥ずかしいことに、自分に不足していることがあるというのは事実です。

だから本にヒントを求め、答えを自分なりに見つける必要があるんです。

 

 

 

ここ最近でいうと、恋愛が結構自分を悩ませてくれて。

 

それまで似ている人、手に取るように気持ちがわかる…とまではいかずとも、

似ているところがある人と意気投合し、

お付き合いする流れになっていたかなと思うんですが、

なんか、もうここまで似ているところがないっていうのも初めてで。

 

だからこそ自分の見えない視点で物事を考えていて、

話しているだけで刺激になるし、

自分にないものをたくさん持っているからこそ惹かれたわけですが、

恋人の関係になるということは、

理解し得ないところをそのままにするわけにもいきません。

 

山崎まさよしさんのセロリに最近になって

心の底から感動するようになったんですが、

まさに、バックグラウンドも今まで生きてきた道も全部違うから、

それに男と女だし、

価値観の違いも好き嫌いも仕方ないんだけどさ。

 

だんだんその"違い"というものが

辛くなってしまって(でもこれは勝手に辛くなってるだけだとわかりましたが)。

 

でも、セロリが爆売れしてるくらいなんだから、

きっと同じように悩んでいる人はたくさんいるんだな、

と、恋愛指南書をいくつか求めるように本屋に行きまして。

 

めちゃくちゃ買いたい本があったんだけど、

 

「こいつこれで悩んでるんだ」って思われるのが恥ずかしい!!!

あと、「こんなの買うから重いんだよ」って知らない店員さんに思われたくない!!!

 

(だってたとえばセックスレスで悩んでいたとして、セックスレスの本を買うとかめちゃくちゃ恥ずかしくないですか?知らない人に「セックスレスです!!」って言ってるようなものじゃないですか)

 

と、立ち読みしつつ買うのを躊躇してしまっていたんですが、

書いたかった本が、ドンピシャで、

「ああ、私の求めてること書いてある…買うしかない…」

と心が叫ぶのです。

 

自意識との戦いです。

 

 

そこで思いました。

 

「その悩みに真剣になったからこそ、

こうして本を買うというほど、

ちゃんと悩みに向き合い、

それを自分の手で解決しようとしている」

自分がいるんだなって。

 

「辛いことがあっても、続かせたいからこそ悩んでるのだし、

乗り越えて、できるだけ長く一緒にいたいし、

そこまで思える恋愛を大事にしたい」

というのが、本を求めた自分の奥底にある気持ちでした。

 

「苦しい」から答えを求めるんじゃなくて、

「好きだ」から答えを求めている。

そこを忘れたらダメ。

 

これは恋愛じゃなくてもね。

 

何かの問題に対して、

諦めたくないから、本を買うんだなと。

 

 

その気持ちがあるだけで立派じゃないですか。

 

そう思ったら、気楽になって、

むしろ勉強熱心な自分が誇らしくなって

レジに向かいました。

「頑張るから君もよろしくねー!!」と本に思いをぶつけました。

 

過剰な自意識を抱えたまま買った本と付き合うよりも、

数倍もその本と仲良くなれた気がします。

 

 

思い一つで、

足取りは随分変わるものです。

 

そして、そう思って買った本は、本当に素晴らしかったです。

 

 

 

 

 

 

ここからは余談というか、

違う話なんですが、

ジョン・グレイ博士という人が、

「男と女は星が違うから基本的にわかりあえるもんじゃない」

っていっていて、私それからなるべくそう意識はしているんですが、

とはいえそれでもどうすればいいかわからないから、本屋に行ったわけです。

 

 

それまではそんなに気にしたことはなかったんですが、

そういえば、

女性の恋愛指南書が多く出ているのは目にするけど、

男性向けの恋愛指南書って、そうはなくないですか?あるんですか?

 

男性向けってもっと、「多くの女性にモテる方法」みたいな本な気がして、

「今付き合っている女性のことを理解しきれない男性が求める本」

ってあんまりないのかなって。

男性ってそういうので悩まないんですかね?

 

あと、恋愛の仕方が多様に認められてきたこの社会だけれど、

未だ同性愛での恋愛のお悩み解消本ってそんなに見かけないんですが、

やっぱり性別が同じっていうのは、

わかりあえることが割と多いから本を求めるまででもないのでしょうか。

もちろん衝突はあると思うけど、

「完全に理解できねえ!!」みたいなことは異性間恋愛より少ないのでしょうか。

需要はあると思ったんですが、まだまだ見かけない分、

外部の圧力と戦う方が今は問題なのかな…。どうなんですかね。

 

あ、あと、もし男性で本当にモテたい人がいたら、

モテるハウツー本より、

女性の恋愛本を読んで、

「女性はどんなことで悩むのか」を把握し、

そのツボをおさえてあげるのが一番いいと思います。

それが女性を攻略することだと思います、

そういう意味では男性は女性の悩みを知れる本がこんなに出回っていて、うらやましいなと思います。

まぁ自主的に勉強するそんな熱心な人がいたら、

恋愛でそんなに悩むこともないかもしれないですけれど。

‪All that glitters is not gold.

輝くもの必ずしも金ならず。

 

シェイクスピアの言葉ですが、

これに同意せざるに得ないことが最近ありました。

 

 

多くは語らないけれど、

一見成功しているような人、

うまくやれてるような人に、

ついて行くか行かまいか、

それはその人が芯から輝いてるかどうかで

判断しないとダメだな、と思ったんです。

 

 

たとえ才能があったとして、

社会ではうまく評価を得ていたとしても、

中身が知らぬ間に腐ってる人は、

その輝きは本当にメッキでしかなくて、

何かの拍子にあっけなく剥がれますね。

 

 

輝いてるからといって、

それがホンモノかっていうとそういうわけでもない。

 

輝いて見えるだけで、輝きはニセモノ。

 

 

それで学んだのは、

人に対しても、自分に対しても、

「この輝きってホンモノなんだろうか」と

点検する時が定期的に必要なんじゃないか

ということです。

 

ホンモノの輝きに気付いてくれる人、

少し影になって見えづらかったとしても、

その輝きをちゃんと掘り起こしてくれる人、

きちんと教えてくれる人、

その輝きを肯定してくれる人、

そして見かけだけの輝きを取っ払ってくれる人、

そういう人を大事にするべきなんだろうなと

思うのです。

そういう人が近くに一人でもいたら、最高ですね。

 

友達やパートナーや家族と、

そういう関係でありたいです。

 

 

 

偽の輝きについていく人は、

メッキが剥がれた瞬間

また別の輝くところを求めて

すぐに寝返るからね。

 

自分が上に立った時、

今下にいる人たちは

自分のどこを見てついてきてくれているのか、

そういうことを意識するのが、

上に立つ人の仕事の1つなんじゃないかな。

 

泥臭くても、

一歩一歩確実に、

どの立場に行っても

自分の大切なものや価値観を曲げずに、

一生懸命やる人は、本当に美しかったです。

 

そうそう、

2012年日比谷野音の宮本さんを見て、

人から放たれる本当の輝きと、

人間として生きる美しさを教えられました。

 

輝くもの必ずしも金ならず。

その分、本物の金は、人の魂を揺さぶる輝きがありますね。

 

中身も外見もちゃんと輝く人になろう。

腐らない人はちゃんと分け前をもらえるシステムだってスーさん言ってたし。

あれ本当に今の心の支えなんですよね。 

 

 

気づいたら、夢、叶ってるよ!

昔の、高校生の時の私に言いたいこと。

 

大人になると、辛いことはたくさんあるし、
高校生の時の悩みとはまた違った種類の悩みが増えたよ。

あの時だって必死に生きていたから悩んでいたし、
こうなればいいのにっていろんな夢や希望を抱えていたりもした。

今も生きづらさは抱えているけど、
でも、高校生の時じゃ味わえなかった楽しさを、
だんだん知れてきたよ。

 

その中の、ほとんどは、
ハタチになった今でも、これからの夢であり続けているけれど、
例えばあなたが大好きだった一人の先生と
卒業後も一緒に仕事する夢とか、
無理だと思っていたようなことが、
その時期になるとすんなりと実現されてたりするよ。

今日メールを読んで、冷静になって、
「あれ、これ高校の時すごく望んでいたものだ」
って気づいた。

先生にも私の意志を伝えてたけど、
「まぁ無理だよ」なんて軽くあしらわれていたようなことが、
まさか向こうからお願いされる、なんてことがさっき起きて、
ほんと、誰から見ても大したことないことなんだけど、
昔の私が聞いたら大興奮しちゃうようなことが、
ちゃんと現実になってるってわかった。

 

願えば、意外と叶うし、
それを知ってるから、
無謀な夢もまだ諦めきれないんだよね。
でも諦めなくていいと思う。
どんな夢も、人に言っても言わなくても、
ちゃんと熟成させれば、
きっとなんらかの形で、時間はかかっても、ちゃんと叶うと思うよ。


気づいたら叶ってたりする、っていう、
そういうセリフ、夢を叶えてきた大人たちがよく言うけれど、
私の身にも、小さくとも起きてるから、
結構、生きるのって楽しいよ。

 

というか、楽しくなってきたよ。

 

 

そんな私は21を目前にして、
また新しいこと、
今まで途中で諦めてしまったことに挑戦しているし、
いくつになっても、
やりたいことをやって、
自分で自分の夢を大事に叶えてあげて、
もっと楽しい人生が送れるといいね。

あと、
辛くなる恋愛とか人間関係とか、環境とかから、
生き延びるためには逃げてもいいっていう、
そういう理論が割と蔓延してくるよ。
ライオンキングの逃げた理論書いた私すごいなって過去の私に言いたい。
でももうちょっと文章力つくといいね。だからこれから私頑張るね。