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腐らず、希望を捨てず。

どこの環境にいっても、

どんな役柄が自分についても、

私はなかなか変われない。

 

 

高校卒業後の一年間は、「アメリカにいって、本当の(大)学生になれば」、

アメリカにいた頃は、「大学やめて、社会人になれば」、

制作会社で働いた半年間は、「この不自由の多い日常を抜け出せれば」、

暇なフリーターの頃は、「また大学にいって勉強すれば」…

 

「私はもっともっと楽になれて、

きっと抱えている病気もよくなって、

毎日楽しい日々を過ごすのだ」

 

と思っていた。

 

 

 

確かに、

転々とし続け、生きている時間を重ねていったことで、

自分の満足するところにはまだまだ達していないけれど、

病気は少しずつ回復しているはずだ。

 

毎日たくさんの時間をかけて自分に絶望し、

でもその中で何かを見つけようと必死で、

外部の刺激を受けつつたくさんの発見ができた。

自分が見たくない自分とも、はじめて向き合った。

ここまでやって変わらないわけがないだろうと思うこともある。

いろいろなことがあって、その中で自分もそれなりに努力をしたと思っている。

 

 

 

ただ、その生き方に私は気持ち悪さも感じている。

自分の人生を否定したくないから、「悔いはない」というけれど、

それでも割り切れないことが多い。

 

いま、私の友人の多くが大学4年生になり、

就職活動に勤しんでいる。

私は日本で大学に入学したばかりである。

 

そんな、学生としての先輩である数人の友人たちが、

生きてきた年数は違わないのに、

「ゆきはいろんな経験してきたね」と言ってくれる。

これ、だいたいいい感じで言ってくれている。たぶん。

皮肉とか、攻撃のつもりではない、はずである。

 

でも、周りの友人だって種類は違えど、

たくさんの経験を同じようにしているのに、

私はマイナーな経歴を持ってしまったが故に、

これまでの生き様を経験量の多さと捉えられることに疑問もある。

 

それは違うのではないか。

 

そんなことを言われるようになってしまっている

私というのが、気持ち悪い。

 

 

私は経験量を盾にして人に説教するような年増にはなりたくない。

いつまでもフレッシュでいたい。

 

派手に見える経験があればあるほど、

「たくさんのことを経験している」と思われるのは確かだろう。

 

そういう視点で自分を見てみると、

アメリカに大学進学しにいき、

すぐ中退してひっそりと帰り奈良で居候、

フルタイムでアルバイトをして、21で大学受験…

 

話せるネタとしては多いかもしれないけれど、

だから他より経験が豊富とは言ってはいけない気がする。

 

 

でも、誰かにそう言われるということは、

私はこの変な生き方を、

誇れるわけではない(真似をしてはいけない)生き方を、

そう思われるくらい人に伝えてきたわけだ。

 

「私は経験量を盾にして人に説教するような年増にはなりたくない。」

と書いたが、

経験量を盾に、苦労アピールや悲劇アピールを周りにしていたのだろうかと

反省会がはじまる。多分そうだ。恥ずかしいやつだ。

 

 

派手に見える経験だけが経験の量にカウントされるわけではない。

自分の内だけでくすぶっている思いがある中で

一見何もないように過ごす毎日だって、立派な経験じゃないか。

みんな、言わないだけで、それぞれの懊悩があり、

ここまで立派に生きている。

 

本質に向き合いきらずに逃げたこの私の生き方に、

何か特別感を持って接せられることが、

ひどく申し訳なくなる。消えたくなる。

弱くて、品がなかっただけだ。量が他より豊富なわけではない。 

量は周りだって同じだろう。

 

それに、病気を経て、豊かな経験が身についた、というよりも、

本当は、病気から逃げようとしているうちに、

想像していなかったところにたどり着き、

その場で生き続けるしかなかっただけなのだ。

 

与えられた場で長く長く存在し続ける周りの人々には及ばない。

大学で3年過ごしてきた友人が眩しいよ。

 

 

 

 

でも、量が多いというのは

これまでの日々はマイナスなことばかりの経験ではなくて(あたりまえだけど)、

そういうドロップアウト期間があったおかげで、

旧友とそれまで以上に深く繋がり分かり合えて、

こういった自分を理解してくれる、愛に溢れた人々とも新しく出会えた。

 

ドロップアウトして、自分なりの経験を積み重ねてきたから、

だんだん人に頼れるようになった。少しずつだ。少しだけ変わった。

私は未だに人に頼るのが下手で、

そもそも人に頼らないと苦しむ無力な自分が嫌なのだけれど、

しんどくなったらなるべく気のおけない友達に連絡できるようになった。

経験がこういう自分を作ってくれた。

これは私なりの経験量が、質に繋がった成功例の一つだと言っていいはずだ。

 

でも、まだまだ多くの部分で変わっていない。

 

 

なぜ変われないのか。

なぜ人に頼れないのか。

なぜこんなにも弱いままなのか。

 

 

自分の面倒ごとに、人を巻き込んではいけないと思っているからだろう。

 

その気持ちを深く掘り下げると、

どうしてもたどりついてしまう答えは、

 

「自分が生きていることが迷惑でしかない」

 

ということ。

 

 

 

被害妄想が過ぎているかもしれない。

考えすぎだよと言われるかもしれない。

 

 

けれど、

生きているとお金がかかるのは当然だ。

誰かとぶつかり不快にさせることもある。

また、自分の面倒な部分や、悩みを打ち明けてしまえば、

相手の忙しい時間を奪ってしまうし、

ハッピーな気持ちにはさせられない。

自分という悩み事が相手の中に増えるかもしれない。

 

自分の人生に相手を巻き込むことが、本当に苦しい。

 

そんなことになるなら、

誰かの迷惑になってしまうなら、

自分が誰かの記憶に「マイナスの存在」として残ってしまうなら、

この社会で生きるのは嫌になる。

 

たとえば私が今大学に通っていること。

これはいつか誰かに還元できることでも、

今、親の経済状況を逼迫している事実は消えない。

 

こんな風に、長期的な利益を考えられないほど、

また、それを考えて心が持ち直せるほど、強くない。

 

今現在誰かに不利益をもたらし、

誰かが私のせいで我慢をしていることが耐えられない。

 

 

 

そういう思いが膨れ上がって、

つい最近は、病気のことも理解してくれていた恋人も、

自分から離してしまった。

 

 

 

付き合っていた彼は口下手だったし、

付き合い始めの頃は病気をいじってくるデリカシーに疑問を抱くこともあった。

 

あのときは信じられなかったけど、

本当に芯の部分では心配してくれていたとだんだんとわかった。

私がよくなることをいつも信じて接してくれていた彼だった。

愛情深かった。

 

だからこそ、すぐによくなることができない自分に無力さを感じたし、

これ以上自分が辛い辛いと言いまわって頼ることができなかった。

相手に見合う人間でないことが怖かった。

 

辛いときに頼ってばかりいては、

いまは「迷惑とは思ってないよ」といってくれている彼も、

いつか絶対、私を負担に思うだろう。

私は嫌われて、捨てられてしまうと思った。

相手の器量を信頼するより、被害妄想が勝ってしまった。

傷つくのをどこまでも怖がる、保身ばかりの人間なのだ。

 

 

 

 

加えて、私は彼に大きく憧れている分、

仕事に一生懸命な彼にいつも寂しさを感じていた。

 

 

私は恋愛に、親にはもらえなかった満足感を得ようとしている。

とてもダサくて気持ちが悪いことだけれど、仕方ない。

私の両親はともに大いに仕事人間だったから、

自分が優先順位として上位にいると感じられたことはほとんどない。

たとえ私たち家族のために仕事をしているとはいえ、

私がいなければここまで必死に仕事をしなくてすんだかもしれないわけだし、

私と直接関わることが少なかった分、そう思ってしまうのは仕方がなかった。

 

 

 

私は、いつも、どうか愛する人の一番になりたかった。

恋愛ではそれが無理だと思ってしまい、いつも苦しかった。

(思えば過去の恋愛も、一番を感じられない恋愛に身を投じて苦しんでいたな。)

 

相手の大切にしていることや一生懸命に取り組んでいることを

相手の人生の中でぽっと出の私がとやかく言う資格はない。

 

恋人にとって優先順位の高いもの(=今回は仕事)と、

せめて同等になりたくても、

それほどの価値や魅力が私にはないことも確かなのは理解していた。

どんなわがままも、私の寂しい主張も、相手の負担になる。

喧嘩になってしまう。

どうしようもないことに不満ばかり言ってしまった。

一番でないことがわかると、

自分の価値の小ささを突きつけられた気がして、

いつも勝手に苦しんでいたからだ。

 

 

一つここで言っておくべきことは、

相手は非情な人間ではない。

先述した通り、本来とても慈愛に満ちた人だった。

ただ、私の恋愛への向き合い方、求めるものと違かった。

だから私の被害妄想は増したのだろう。

 

彼は自律していて、私よりはるかに大人だった。

 

 

恥をしのんで言うが、私はいつも愛に飢えていた。

自分の性にも疑問があるし、不確かなままでいる。

そして摂食障害を患うボーダーライン障害者で、

自己肯定感も低いために卑屈さが出て相手の気分を悪くしてしまう。

 

こんな私を受け入れてくれたから、素晴らしい人だった。

 

 

だから、そんな愛する人が自分のせいで苦しみ、

心の悩みが増えてしまうのは絶対に嫌だった。

 

相手のそんな姿は絶対に見たくないし、

自分がそんな印象の残り方をするのも怖かった。

 

いつか捨てられて大きく傷付くくらいなら、

自分から離してしまおうとする防衛反応が働いて、

彼の愛の船に乗り切れず、自分から離れていった。

 

 

 

こういう、弱くてどうしようもない自分から目を背けては、

どこにいっても、誰といても、

私は自ら幸せを突き放す。

 

恐ろしいことである。

 

 

 

私は私と闘い続けなければいけない。

もっともっと、幸せになりたいからだ。

最大限に、幸せでありたいのだ。

 

 

今は自分が不安定すぎて、

恵まれた環境をありがたがれない、

残念で可哀想なやつでいる。

 

 

どうすれば、もっと幸せになれるのだ。

どうすれば、病気からさよならができるのだ。

どうすれば、愛する人の愛に素直になれるのか。

どうすれば、私は私になれるのか。

 

 

 

多分、生き続けるしかない。

生きる選択が、私にとって、闘うということだ。

時間がたてば、多分ボーダーはよくなると感じるし、

本来の自分を自分なりに構築していって、

愛する人と幸せになり、自己実現できていくと思う。

だから、そのためには生き続けなければならない。

 

毎日、

生きている罪悪感と、

自分が自分であることの絶望感が拭えず、

もう生きているのが怖くなる。

どうなるかもわからない未来のために、

どこまで続くかわからないこの人生を引き延ばすことを考えるだけで

疲れて、しんどくなってしまう。

いきなり電車で泣き出してしまうほど、苦しい。

 

 

もう本当は嫌だ、生きるのが、本当に嫌だ。

 

 

でも、

そう思っても、

死んでもいいなんて、自分にもう絶対言わない。

「死にたい」は思っても、「死のう」とは思わせない。

 

 

腐らず、希望を捨てず、寿命が果てるまで、生きようと思うのだ。

 

 

これが私の、今の一番の目標である。

 

全員で高みを目指そうとする大学で、

私は、ただ普通を目指している。

悪くないだろう。ぜったい、間違っていないだろう。

 

私はとにかく、生きながらえる。

 

悲しみの果てにある、素晴らしい日々をいつまでも追い続けて、

生を選択し続けるのだ。

 

その一瞬一瞬の選択の積み重ねの先で、

私はいつか絶対に、輝こうと思っている。

 

 

こんな私を見守ってくれる人はいますか?

 

 

いなくても、それでも私は生き続けるよ。

そうすることしか、今はできないからね。

 

 

負けるなよ。お願いだから。